祭りのあと
「想空、もう帰るの?」
「うん、今日はちょっとな……」
土曜日の練習が終わって、俺は帰り支度を急いでいた。
今日だけは、行かなければならない場所がある。
「なんか最近、土曜日は早く帰ってるじゃん。何かあるの?」
「何かって程じゃないけどさ……」
実夢には話せない。
もちろん、他の誰にも。
「何か知らないけどさ、急いだ方がいいんじゃね?」
慧介が、俺を促すように言う。
言われなくても、そのつもりだ。
とにかく、早く行かなきゃ。
神社へと続く道を、半分駆け足で、息を切らせながら。
先回りして考えてばかりで、自分の気持ちを抑え込んで。
今までの俺は、そんな事ばかりしてきた気がする。
今日で終わりにするんだ。
そう心に決めている。
神社の石段の下。
先週の出来事を思い出した。
あの時のように、どこかから急に現れて、俺を驚かせてくれないだろうか。都合のいい妄想が、頭に浮かぶ。
周りを見渡した。
誰もいない。
蝉の声だけが響いている。
見上げれば、薄紫色の紫陽花の行列。瑞々しく咲く花に、今日は見向きもせずに登って行く。俺が見たい景色は、きっとこの先にある、きっとそこに居てくれる。
そう信じて。
赤い鳥居をくぐる。
風が木々を揺らす音。
石畳の上で揺れる薄い影。
初めて会った日と同じ、静かな空間。
ただ1つ違う事は……
それから、どれくらい時間が経っただろう。
俺は1人、境内で佇んでいた。
「青晴」と「想空」
2人の間でしか使わない呼び方で。
「いつもの場所」「いつもの時間」
たぶん、2人にしか分からない会話。
あれは、本当に「約束」だったのだろうか。
思い返して、不安になって。
でも、もしまた会えるとしたら、今日しかない。
ここから立ち去れば、全てが終ってしまう。
そう思うと、諦めきれなくて。
頭の中で、この2週間の出来事が流れていく。
偶然、ここで出会って。
偶然、教室で再会して。
初めて自分から話しかけた時、本当は心臓が飛び出しそうだった。自信を無くして、弱音も吐いて困らせて。でも、そんな俺を励ましてくれて。
またここで会えた時は、夢のようだった。
それからは必死で、期待に応えたくて。でも、迷惑もかけたくなくて。いろんな事を考えて、悩んで、時には敵同士にもなったけれど。
今更、気づかされたんだ。
自分の気持ちが、こんなにも大きくなっていた事。
青晴さんに会いたい。
ふと、思い出した事がある。
絵馬。
俺は慌てて、本殿の脇にある絵馬掛けに走った。たくさん並んだ絵馬の中から、青晴さんの文字を探す。
見つけた。
絵馬掛けの一番端。
「想空くんが、この絵馬を見つけてくれますように」
それが、最初に書かれていた願い。
叶いましたよ。
俺は無言で、その続きを読んでいく。
「想空くんが、立派な空手部主将になりますように」
いつだってそうだ。
青晴さんは、誰かの為の願いを絵馬に書く。
先生として、生徒の幸せを本気で願う、そういう事ができる人だ。自分の願いばかり考えてしまう俺とは、全然違う。きっと、いや、間違いなく素晴らしい先生になると思う。
俺も今日は、誰かの為の願いを絵馬に書こう。
誰からも好かれて、尊敬されるような、素敵な先生になってほしい。
そう思うのと同時に、気づきたくない事にも気づく。
青晴さんは、絵馬を書く為に、ここに来ると言っていた。すでに絵馬があるという事は、青晴さんはきっともう……
胸に寂しさが広がって行く。
まるで、祭りのあとのような。
その時、俺の目は小さな文字を見つけた。絵馬の隅、紫陽花の絵の近くに小さく書かれた文字。
「鳥居の足元を探してみて!」
どういう意味だろう?
鳥居の足元には、紫陽花の花がまるでひしめくように咲いている。薄紫色の花をそっと掻き分けて……
俺は、言葉を失った。
そこに咲いていたのは、桃色の紫陽花。
薄紫色に隠れるようにただ一つ、ハート型の花が咲いている。それは、2人で石段を登って、俺がゴールする直前だった場所。
何…… だよ……
何だよ、これ!
何だよ!
あの時。
眩しくて、他に何も見えなくて。
すぐ足元にあったのに。
世界で一番美しいものを見たような気がした。馬鹿みたいだけれど、本当にそう思ったんだ。だから、目を離す事なんてできなかった。
でも、もし違っていたら。
あの時、2人でこの花を見つける事ができていたら。
何かが変わっていたのだろうか。
そう思わずにはいられなかった。




