君の名前
「あ、あの! すいませんでした! 先輩だという事に全然気づかなくて……」
「え、いいよ! そんなの気にしないで!」
そう言われても、なんだかんだ体育会系。
相手が先輩だと分かった以上、どうしても「縦の関係」を意識せざるを得ない。さっきまで浮わついた気分が嘘のように、一気に背筋が伸びた。
「押忍! 空手部2年生の藤澤想空です! よろしくお願いします!」
この人が空手部の先輩だというのなら、まずは自己紹介しておかなければならない。
「想空……くん? ……て読むんだ、君の名前」
先輩が見ているのは、俺のTシャツの左胸。
そこに書かれた俺の名前、「想空」。
初見で読めた人は、今まであまりいなかったと思う。
「少し変わった漢字だね。『空を想う』みたいな意味?」
「あ、あの、意味はよく知らないんですが、変わった漢字ってよく言われます」
本当は違った。
この名前には、込められた別の意味がある。
でも、それを他の誰かに話した事はほとんどない。いや、「話したくない」と言った方が正確かもしれない。なぜなら、自分の名前と現実の自分とを比べたら……
とはいえ、今はこの名前をきっかけに、会話を膨らませる事ができそうだ。とりあえず、使えるものは何だって使わないと。
「私も、自己紹介しなきゃね。岩佐青晴です。私の名前も、ちょっと変わった漢字って言われるよ」
「どんな漢字なんですか?」
「うん、「青く晴れる」って書くんだ。普通は「青い葉っぱ」だって思うでしょ」
「本当ですね。今、そうだと思ってました」
「青葉」じゃなくて「青晴」。
少し珍しいけれど、素敵な名前だと思う。
「フフフ…… なんだか、2人の名前でセットみたいだね。『青く晴れた空』みたいな」
「は、はい……」
事も無げに、思わせぶりな事を言う岩佐先輩。対して俺は、動揺を隠せなかった。全身が火照るような感覚、顔が真っ赤になっていたらどうしようか。
「今日は、何か願い事しに来たの?」
「あ…… はい。一応、次期主将ですんで、ちゃんと務められるように……」
「本当? 凄いね! じゃあ、しっかりお参りしとかなきゃね」
「はい、そのつもりです」
「神頼み」なんて、少し情けないんじゃないかと、本音では思っている。でも今は、先輩に話を合わせる。
本殿の前に、2人で並んで。
お賽銭を投げて、目を閉じて手を合わせる。
「空手部主将を、立派に務められますように」
そんな願いを強く込めて、お参りした。
もちろん、神様に頼っているだけじゃ、駄目だと思う。
これからしっかり頑張って、「任せてよかった」と言ってもらえるように、そして、岩佐先輩にも立派な主将だと認めてもらえるようにならないと。
……少し、不純な動機が混ざってしまった。
「先輩は、何をお願いしたんですか?」
「知りたい?」
「それは、まぁ…… あ、僕は教えましたよ」
「フフフ…… どうしよっかなぁ」
そんな風に勿体つけられると、ますます知りたくなってしまう。俺は静かに、先輩の答えを待った。
「やっぱり秘密」
「え、教えてくださいよ」
「だーめ! 今は秘密!」
「ちょっ…… ズルいですよ、そんなの!」
無理に願い事を聞き出したい、とは思っていない。でも、わざとムキになってみた。場を盛り上げたい気持ち半分、照れ隠しも半分という感じで。
ふと、気づいた。
「今は秘密」というのは、どういう事だろう?
「次がある」「また会える」という事なのだろうか?
これで終わりじゃないのかもしれない。
まだ、続きがあるのかもしれない。
先輩に聞きたい事が、山のように頭に浮かんでくる。
でも、俺はそれを、言葉にすることができなかった。
さっき会ったばかりの奴が、急に距離を詰めて来たりしたら、さすがに変に思われるだろう。後輩だからといって、あまり馴れ馴れしくしすぎるのも、どうかと思う。
勇気を出す事から逃げる為の、それっぽい理由が、ここぞとばかりに次々と頭に浮かんで。
「あの、僕そろそろ行きますんで、失礼します」
「あ、うん。それじゃ……」
適度な距離感も大事だ。
きっとそうだ。
言い訳のように自分に言い聞かせながら、俺は1人、石段を降りた。目の前には、青く晴れた空。
「青く晴れた空」
さっき聞いた言葉を、ぼんやりと思い出す。
やはり、頑張ってもう少し仲良くなっておいた方が、良かったのだろうか。
よく考えれば、また会える保証なんて、実はどこにもない。俺が勝手に、そう思っているだけだ。
もし、また会えるとしても、それがいつになるのかも分からない。その時には、俺の事なんて忘れているかもしれない。
今になって、そんな事ばかりが頭に浮かんてくる。
紫陽花の行列に見送られながら、俺は自分の不甲斐なさを噛み締めていた。




