梅雨の晴れ間
やばい。
やばい、やばい、やばい!
高校の空手部の練習帰り、俺は心ここにあらずのまま歩いていた。足取りが重いのか、それとも軽いのか、それすらよく分からない。
焦り、不安、プレッシャー。
その全てが混ざり合い、頭の中をぐるぐる回っている。
ほんの1時間くらい前から、ずっとだ。
季節は、梅雨の真っ只中。
ずっと続いていた雨が、やっと止んで。
よく晴れた土曜日の昼下がり、今日も練習が終わって。
「藤澤くん、ちょっといい?」
声をかけてきたのは、主将の笹本先輩。この人は、後輩を呼ぶ時にも、「くん」付け、「さん」付け。体育会系とは思えないくらい、穏やかな人だ。
「押忍、何でしょうか?」
「うん、ここじゃなんだから、隅っこ行こうか」
予感のようなものはあった。
自分にとって良い話なのか、それとも悪い話なのか。どちらにせよ、ただ事じゃないという雰囲気だけは感じる。何を言われるのか身構えながら、俺は武道場の隅へと向かった。
「他の人には、まだ、あまり言わないで欲しいんだけど……」
笹本先輩の囁くような声は、俺を一層不安にさせる。
「なんか、怖いんですけど……」
「そんな、不安そうな顔しなくてもいいよ。次の主将をやってもらうってだけだから」
「え、あの……」
「『え』じゃなくて『押忍』ね。心配しなくても大丈夫、藤澤くんならできるよ」
ある日突然、大役を任された時。
例えば、漫画の主人公だったら、闘志を燃やして挑戦しようとするのだろうか。その先に待っている苦難を、何ひとつ恐れる事も無く、むしろ、ワクワクしたりするのだろうか。
俺が所属する空手部は、部員20人を超えるチーム。今年は関東大会まで進むも、惜しくも敗退。でも数年前には、全国大会に進んだこともあるらしい。
3年生は夏前に引退し、これからは俺たち2年生が中心。
再び、全国大会を目指さなければならない。
そんなチームの主将。
責任重大だ。
心配事ばかりが、どんどん頭に浮かんてくる。
もし、チームをまとめることができなかったら。
もし、自分の代でチームの成績が落ちたりしたら。
そもそも、どうして俺が選ばれたのだろう。
俺なんかよりも……
そんな思いが、俺をここに連れて来たのかもしれない。
俺は神社の石段の下にいた。何とかして、この大役を務めなければならない。その為なら、「神頼み」だってする。できる事は、何だってしておきたい。
石段の両側には、薄紫色の紫陽花が、頂上まで並んで咲いている。今の季節しか見られない景色、少しだけ現実を忘れられた気がする。
石段の頂上には、赤い鳥居。そこをくぐった先は、静かな空間。木々の間から差し込む陽の光が、石畳に薄い影を揺らしている。
「……?」
爪先に、何かが当たったのを感じた。
足元を見ると、10円玉が光っている。
「すいません! それ私のです!」
思わず手を伸ばして拾った俺の耳に、少し慌てた声が飛び込んてくる。顔を上げると、たぶん俺より少し年上、大学生くらいの女の人が、こちらに駆けてくる。
少しだけ、息を弾ませながら……
何と言えば良いのだろう。
今感じている、この感覚を。
俺はそのまま、目を離すことができなかった。
少し茶色がかった長い髪が、陽の光を受けてキラキラと光る。薄紫色のワンピースは、さっき見た紫陽花のように鮮やかな色。何よりも、吸い込まれそうな瞳がとても綺麗で。
眩しい。
その言葉が、一番似合う気がした。
まるで、梅雨の晴れ間の太陽のような。
「ありがとうございます」
「あ、いえ……」
目の前まで来たその人から、思わず視線を逸らしてしまう。さっきまで見惚れていたくせに、今は目を合わせる事もできなくて。
この神社には、よく来るのだろうか。
帰り道にいつも通る場所だし、また会えるかも……
根拠も無く、身勝手な期待をしながら、俺は俯いたまま。
「あの、もしかしてなんですけど、空手やってらっしゃいますか?」
「え、えっと…… はい」
「やっぱり! そうだと思った!」
何が起こっているのか、自分でもよく分からなかった。
目の前の人が、俺に話しかけてくれている。
「あ、あの、なんで分かったんですか?」
この人は、どうして俺が空手をやっていると分かったのだろう? 頭に浮かんだ疑問を、俺は懸命に言葉にした。
このまま、会話を続けたい。
何でもいいから、話さないと。
「いま着てるTシャツ、空手部のですよね」
「知ってるんですか?」
「フフフ…… はい、よく知ってますよ」
そんなに有名なのだろうか? このTシャツ。
背中には、妙に気合の入った「一拳入魂」の黒い文字。確かにインパクトのあるデザインで、目立ってはいるけれど……
「私も昔、それと同じの着てましたから」
「え……?」
一瞬、意味が分からなくて。
でも、理解するのに時間は掛からなかった。
この人は、うちの空手部のOBだという事だ。こんなに綺麗な人が、空手部に所属していたという事が、にわかには信じられない。
……いや、そんな事は大した問題じゃない。
要するに俺は、さっきまで自分の先輩に当たる人に、熱を上げてしまっていたということだ。
やばい、やばい、やばい!
今にも、顔から火が出そうだ……




