想空くん
「桃色の紫陽花見つかった?」
「い、いえ……」
俺は、青晴さんの顔を、まともに見ることができなかった。急に、恥ずかしさが込み上げてくる。さっきまで、見惚れてしまっていた事を思い出して。
「そっか…… やっぱ、なかなか見つからないね…… ハート型とか見つかったら、びっくりだったんだけどな」
「ハート型だと、何かあるんですか?」
「恋愛運が最高なんだって。カップルで見つけて、そのまま結婚した人も、いるとかいないとか……」
「へえ…… 凄いですね」
心臓が飛び出しそうなくらい、ドキドキしている。
俺は、必死に隠しながら答えた。
もしそれが本当に見つかっていたら、青晴さんはどうするつもりだったのだろう。
「じゃあさ、せっかくだし、一緒にお参りしてこうよ」
俺とは対照的に、青晴さんはずっと自然体のまま。今の夢のような状況に、頭が真っ白になっているのは、俺だけなのだろうか。
落ち着け、自分。
必死にそう言い聞かせながら、並んで本殿の前に立って。
目を閉じて、静かに手を合わせる。
涼しい風が、木々を揺らす音が聞こえる。
まるで世界が止まったような、静かな時間が流れた。
そっと目を開けて、隣を見た。青晴さんは、まだ目を閉じたまま、手を合わせている。真剣な横顔。何を願っているのだろう……
また、見惚れてしまっている自分に気づく。
「……? 想空くん、どうかした?」
「い、いえ!」
俺は慌てて視線をそらし、見惚れていた事をごまかそうとした。青晴さんが不意にこちらを向いて、「想空くん」なんて言うから……
……想空くん?
「うん。やっぱり、『想空くん』の方がしっくりくるな。これから、この呼び方でもいいかな?」
「え、あの、大丈夫です! もちろん!」
もちろん、断る理由なんてない。でも、お互いに下の名前で呼び合う事になるなんて、思いもしなかった。
「私のことも『青晴』って呼んでもらってるし、お互い様って事で。あ、でも学校ではちゃんと名字で呼ぶね」
学校では名字で呼び合う、というのも、何だか「2人だけの秘密」のようで。
これは、一体どういう関係なのだろうか?少なくとも、「先生と生徒」でも、「先輩と後輩」でもないような気がする。
だとしたら……?
「私、今日は絵馬を書こうと思うんだけど、想空くんはどうする?」
「じゃあ、僕も書きます」
この神社の絵馬は、小さな紫陽花の絵が描かれていて、少し可愛いデザインだ。俺1人だったら、たぶん絵馬なんて書こうとは思わなかっただろう。
「空手部主将を、立派に務められますように」
でも今は、真剣に願い事を書いている。
この前と同じ願い事。
でも今回は「神頼み」というより、「神様に誓う」といった方が近い。覚悟を決めて頑張るという、決意表明のようなものだ。
本当は、もう1つ願い事はあったのだけれど……
まさか本人がいる前で、それを絵馬に書く勇気はない。
「生徒のみんなが、素敵な高校生活を送れますように」
俺の絵馬の隣に、綺麗な文字で書かれた絵馬が並ぶ。自分の事より生徒の為の願い事を書くなんて、いかにも青晴さんらしい。
「僕らの為の願い事ですね。なんか嬉しいです」
「うん。あと1週間で教育実習は終わりだし、みんなともお別れだから……」
「また空手部に来てくださいよ。みんな喜ぶと思いますよ」
本当に、大歓迎だ。
赤井先輩みたいな人が来たら、正直怖い。
でも、青晴さんが来てくれるなら……
「ありがと。でも、もう来れないかもしれないし……」
一瞬、意味が分からなくて。
分かりたくなくて。
もう、来れない。
つまり、あと1週間で会えなくなるという事。
「あの、どうして…… ですか?」
「大学が京都だし、終わったらそっちに戻るから……」
「京都…… 遠いですね……」
青晴さんがそんな遠くに行ってしまうなんて、思いもしなかった。これからも、空手部に顔を出してくれる。俺が主将として頑張るところも、見てもらえる。
当たり前のように、そう思っていた。
よく考えれば、いつでも来れるのなら、これまでだって青晴さんは、空手部に顔を出してくれていたはずだ。今は、教育実習の為に、たまたま母校に帰って来ていただけ。
教育実習が終われば、帰るのは当たり前だ。
「そろそろ、行こっか!」
急に黙ってしまった俺に、青晴さんが明るい声で言った。俺の気持ちを、察したのだろうか。また、気を遣わせてしまったかもしれない。
2人並んで、石段を下って行く。
あと何回、こんな風に一緒に歩けるのだろう。
薄紫色の紫陽花が、陽の光を受けて咲いている。もしその中に、桃色の紫陽花を見つける事ができたなら、俺が願う事は1つだろう。
絵馬に書く事の無かった、もう1つの願い。




