紫陽花
約束なんて、何もしていない。
それでも、心はもう走り出している。
昨日までの天気が嘘のように、晴れ渡った土曜日。空手部の練習が終わると、俺は学校を飛び出していた。
そこで待っていてくれる、そんな保証はどこにもない。
それでも早く。
とにかく、早く行かないと。
鼓動が加速していく。
今の気持ちと、シンクロするように。
見慣れた石段が見えてくる。
足取りは、少しずつゆっくりになる。
辺りに人影はない。
急に、冷静になった。
よく考えれば、そんな漫画に出てきそうな展開が、実際にあるだろうか。俺1人で勝手に盛り上がって、突っ走っていただけじゃないのか。
少し気が抜けたように、小さなため息を一つ。
「わ!」
大きな声とともに、突然、後ろから肩をつかまれた。他に誰かがいる気配なんて無かったから、驚いて、思わず身をすくめてしまう。
振り向いた俺が見たのは、少し悪戯っぽい笑顔で。
ズルいですよ、そんなの。
そんな顔をされたら、怒れるわけがない。
「偶然だね」
もちろん、偶然なんかじゃなくて。
少なくとも、俺にとっては。
嬉しい。
出会うことができて。
「びっくりさせないでくださいよ、岩佐せん……」
「……? どうかした?」
俺は一瞬、迷ってしまった。
教室では岩佐先生、部活では岩佐先輩。何となく、使い分けていた。
それなら、教室でも部活でもなかったら?
何て呼べばいいのだろう?
「あ、いえ…… 今は『先生』か『先輩』、どっちで呼べばいいのかなって。あの、どっちがいいですか?」
「えっと、そうだな……」
真上から照りつける日差しが、足元に短い影を作る。
気の早い蝉の声が、夏が近いことを教える。
俺は無言で、答えを待った。
「……『青晴』でいいけど」
「え!? 下の名前ですか!?」
俺は、思わず聞き返してしまった。先輩を下の名前で呼ぶなんて、いくら何でも、馴れ馴れしすぎるのでは?
「いいよ、使い分けるのややこしいし! じゃ、決定!」
「お、押忍」
「フフフ…… 『押忍」』は部活の時だけにしようよ。今は『先輩』じゃないんだし」
半ば強引に、決まってしまった。
本当にいいのだろうか?
「青晴さん」 ……と呼んでも。
「あ、あの…… 今日は白い服なんですね」
緊張しながら、必死に話題を探す。今日は、真っ白なワンピース。もちろん、とても似合っていると思う。
「うん、『今日のラッキーカラーは白』ってテレビで言ってたから、着てみようかなって」
「あ…… …… そういうの、気にする方なんですか?」
「青晴さん」
そう呼ぼうとして、言葉に詰まる。
やはり緊張して、うまく言葉にできない。
「フフフ…… そうかも。そういえば藤澤くん、ここの紫陽花の、都市伝説って知ってる?」
「あ、いえ…… どんな都市伝説なんですか?」
俺は、そういう話は信じないし、あまり興味もない方だ。
本当は。
「ここの紫陽花って、いつもは薄紫色の花ばかりなんだけど、たまに桃色の花が咲くことがあって。もし見つけられたら、願いがかなうんだって」
「へえ…… それ初めて聞きました」
「そっかぁ…… 私がいた頃は、女子の間では結構有名だったんだけどな……」
でも、そんな話でも、青晴さんとなら楽しい。
「ね、これから探してみようよ!」
「あ、面白そうですね」
それによく考えれば、俺もこの前「神頼み」なんてしていたわけで。縁起を担いでみるのも、悪くないかもしれない。
「じゃあ、石段を登りながら探そっか。藤澤くんは石段の右側、私は左側を見てくね」
「分かりました」
「じゃあ、頂上まで競走!」
え? 今、さらっと趣旨が変わったような……
「じゃ、よーいドン!」
「ちょっ、青晴さん! ズルいですって!」
いきなりのスタート。
スカートを揺らしながら、石段を駆け上がる青晴さんを、俺は必死に追った。
でも、青晴さんが速い。すぐに追いつくと思ったのに、なかなか追いつけない。
そういえば、さっき驚かされた時も、全く気配に気づかなかったし。こんな所で、「青鬼」の片鱗を見る事になるとは思わなかった。
懸命に走りながら、横目で桃色の紫陽花を探す。上下に揺れる視界に飛び込んでくるのは、どこまで行っても薄紫色の花ばかり。桃色の花は見当たらない。
頂上の赤い鳥居が近づいてくる。青晴さんとの距離も、どんどん近づいてきた。俺は懸命に、ラストスパートをかける。
「やったぁ!」
先に鳥居をくぐったのは、青晴さんだった。俺は鳥居の少し手前、ギリギリ追いつけなかった。
「藤澤くんの負けー!」
青晴さんが振り向いて、笑った。
その瞬間。
世界が、スローモーションに見えた。
それはまるで、初めて出会った日のように。
少し茶色がかった髪が、陽の光で輝くのも。
ワンピースのスカートが風に揺れるのも。
綺麗な瞳と、そして笑顔も。
眩しい。全部が。
ほんの数秒間、でもそれが何倍にも感じるくらい。
俺は見つめていた。
目の前の人だけを。




