名前負け
「あれ? 想空、帰んないの?」
「今日は自主練残るわ。実夢は先に帰ってて」
「そっか…… 分かった」
今日は、帰ろうという気にならなかった。
何もできなかった自分が不甲斐なくて、許せなくて。
とにかく、何かしなければならない。
そんな思いだけが、どこまでも膨らんでいた。
「あ、そうだ…… さっきはお疲れ様!」
実夢が、思い出したように振り返って言った。
「慧介くんの応援、凄く盛り上げてくれてたじゃん。やっぱさ、想空がいると違うなって」
「え……?」
「想空の声ってさ、なんかこう…… 力もらえるっていうかさ……」
「何だよそれ」
「じゃ、カラオケでも盛り上げ役、よろしくー」
いや、だからさ。
俺は、祝ってもらう側じゃなかったのかって。
でも、ちょっとだけ元気が出た。
ありがとな、実夢。
誰もいなくなった武道場は、妙に広く感じる。
いつの間にか、雨も上がったようだ。音のない空間に、何かに追い立てられるような、俺の息づかいだけが響く。
実夢は、ああ言ってくれたけれど、やはり自分の中では納得できていない。
格上の選手が相手だとしても、勝つ事は諦めない。挑戦する事を諦めない。それが、自分の戦い方じゃなかったのか。
でも俺は、挑戦する事から逃げてしまった。
「赤鬼」の恐怖に、踏み留まる事ができなかった。
強敵を目の前にしても、恐れずチームを鼓舞し、立ち向かって行く。それが、主将というものだと思う。
俺に、その資格があるのだろうか?
「藤澤くん? まだいたの?」
不意に、後ろからかけられた声。
振り返るとそこにいたのは、岩佐先輩。今は空手着ではなくスーツ姿、岩佐先生と呼んだ方が、しっくりくる。
「押忍、まだいらっしゃったんですか?」
「うん。もう帰るとこだったんだけど、武道場に電気がついてたから、誰かいるのかなって」
時計を見ると、もう7時過ぎ。今の季節は日が長いとはいえ、さすがにこれ以上残っていたら、何か言われそうだ。
「もう遅い時間ですね、僕もそろそろ終わります」
「じゃあ床掃除、手伝うよ」
「え! あの、1人で大丈夫ですよ!」
「いいよ、2人の方が早く終わるし、ササッとやっちゃお!」
結局、練習後の床掃除を、一緒にすることになった。
他に誰もいない武道場で、2人きり。本当なら、舞い上がってしまいそうな状況。でも、俺の心はどこか沈んでいた。
「藤澤くんって、練習熱心なんだ。やっぱり、もうすぐ主将になるから?」
「あ、いえ、それもあるんですけど……」
「けど……?」
「何ていうか、自分に納得がいかないというか……」
いつもの自分なら、格好つけて、落ち込んでいた事を隠していたと思う。
でも今は、それができない。
隠すどころか、どんどん口から出ていく。
「赤井先輩が怖くて、何にもできなかったですし」
「みんな同じだよ。私だって怖いよー」
「でも、情けないです。こんなんじゃ、みんなに着いてきてもらえないですよ……」
俺は、どんな主将になりたいのか。
練習を盛り上げて、試合でも活躍して。みんなに一目置かれるような、そんな主将。
それは、夢のような「空想」
「空想」の反対は「現実」
夢のような「空想」でも、いつか「現実」に変えることができるように。「空想」という文字を逆さまにしたのは、そんな願いが込められている。
昔、両親から聞いた話だ。
それが俺の名前。
「想空」
本当に、名前負けもいいところだ。だから、岩佐先生に名前の意味を聞かれた時も、答える事ができなかった。
「空想」を「現実」に変えられない自分。
そんな自分の姿を見られて、幻滅されるのが怖い。
沈黙が続いた。
こんなところで弱音を吐いて、岩佐先生を困らせて。俺は一体、何をやっているのだろう。
「……でもさ、そうやって悩むって事は、藤澤くんが『一生懸命』だって事だと思うな」
沈黙を破ったのほ、岩佐先生の声。
「そういうところって、みんなちゃんと見てくれてるよ。だから大丈夫だと思うけどな」
「そう…… でしょうか?」
「うん! 絶対に大丈夫!」
それは、俺への気遣いだったのかもしれない。
わざと、前向きな言葉をかけてくれたのかもしれない。
俺にだって、それくらい分かる。
それでも先生の言葉に、少しだけ心が軽くなって。
「やっぱり2人でやると、早く終われたね」
「押忍、ありがとうございました」
気がつけば、床掃除は終了。短い時間だったけれど、自分の中に溜まっていた気持ちを、吐き出す事もできた。
「帰れるまで、時間かかりそう?」
「すいません。着替えとかで、少しかかるかもです」
「そっか…… じゃあ、先に帰っとくね」
今日は、本当にいろんな事があったけれど、最後は晴れやかな気持ちで終われそうだ。終わり良ければ、全て良し……
あれ? もしかして今……
岩佐先生と、一緒に帰るチャンスだったんじゃ……
千載一遇のチャンスを逃した俺が、思わず心の中で叫んだのは、言うまでもない。




