第77話 もう一つの防衛戦
才牙たちが車内で、戦後の心地よい疲労と「ポイント」という名の欲望に浸りながら帰路についていた頃。
所変わって、魔法科日本支部の中枢――最深部に位置する、厳重な防音と魔力遮断が施された特別会議室は、重苦しく、肌を刺すような冷え切った空気に包まれていた。
薄暗い部屋の中央に、泰然自若として立つのは
日本支部長・水鏡 柊。
彼女を取り囲むように展開された幾枚もの大型空中モニターには、世界魔法科機構(WMO)のトップ層――各国の防衛を統べる重鎮たちの、厳めしい顔が映し出されていた。
名目上の議題は、極東の島国で発生した『A級アンヴァーの出現と討伐』に関する緊急事態報告。
だが、モニター越しの視線は、未曾有の偉業を成し遂げた日本支部への称賛などではなく、冷酷なまでに研ぎ澄まされた『疑念』に満ちていた。
『――つまり、今回も「事前察知は不可能」であった。左様に申すのだな?』
モニターの一つ、欧州を統括する白髭の老支部長が、値踏みするような低い声で問う。
柊は背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、磁器のような肌の表情を一つ変えずに頷いた。
「はい。A級アンヴァーの出現には、特有の予兆となる魔力波形が存在いたしません。我々日本支部も、空間が裂ける轟音とともに次元の裂け目から実体が視認されるその瞬間まで、完全な出現感知には至っておりませんでした」
『……ふん、馬鹿馬鹿しい』
別のモニターから、吐き捨てるような嘲笑が響いた。
重鎮たちが抱く疑念。今回の緊急召集の『真の目的』は、まさにそこにあった。
『発生地点は、人口密集地たる第七地区だ。今回の大鯨が放った質量と広域雷撃、そして墜落の衝撃を鑑みれば、本来ならば数万の民間人に犠牲者が出てもおかしくない大惨事。……だろう?』
理事が手元の資料を、忌々しげにモニターへと突きつける。
『だが、上がってきた報告書によれば、民間人の死傷者は「ゼロ」。なぜなら、A級アンヴァーが上空に出現する“直前”に、貴公ら日本支部は第七地区の広域において、極めて大規模な【アンヴァー災害避難訓練】を強行し、住民をシェルターへ誘導し終えていたからだ』
重鎮たちの鋭い視線が、物理的な圧力となって柊へと突き刺さる。
これほどまでに、天文学的な確率の「奇跡」があるだろうか。
未曾有の化け物が現れるその直前に、まるで「そこに何かが来る」と確信していたかのように、街を空っぽにしていたのだ。
『ふむ。あくまで「偶然」であったと。そう言い張るのだな、日本支部長』
尋問官のように目を細めた理事の言葉が、会議室の温度をさらに数度引き下げる。
彼らは確信しているのだ。日本支部が、世界機構すら把握していない『未知の予測システム』、あるいは『規格外の情報源』を独占し、隠匿しているのではないかと。
だが、柊の表情は、冬の湖面のように微動だにしなかった。
「はい。今回、大規模な避難訓練を実施しております最中に、”偶然”にも、A級アンヴァー『天蓋の大鯨』が出現いたしました。まさに、不幸中の幸いでございました」
『……………………』
白々しいにも程がある回答。
モニター越しの重鎮たちは一様に顔を顰め、部屋には耐え難い沈黙が降りた。
もちろん、柊は嘘をついている。
すべては、現場の指揮を執る雅から上がってきた「とある規格外の魔法少女の予見」に基づく、独断の緊急手配だった。
だが、その事実を世界機構に渡すわけにはいかない。もし『A級アンヴァーの襲来を感知できる魔法少女』の存在が世界に知れ渡れば、彼女は間違いなく機構のモルモット、あるいは政治的な駒として、地獄へ囲い込まれてしまう。
(彼女たち魔法少女は、我々日本支部の……いや、この世界の最大の宝だ。大人たちの浅ましい政治の道具にさせるわけにはいかない)
柊は腹の底で鋼の決意を固めながら、あくまで涼しい顔で「ただの幸運」を主張し続ける。
魔法少女たちが空で大鯨をぶちのめしていたその裏で、大人たちによるもう一つの泥沼の防衛戦が、静かに、そして確実に繰り広げられていた。
並び立つ空中モニターの最中央。
世界魔法科機構(WMO)の頂点に君臨する事務総長、ガブリエル・ハミルトンは、画面越しに氷のように冷徹な眼差しで、日本支部長である柊を射抜かんばかりに見据えていた。
『……アンヴァー襲来の事前探知は、我々人類の悲願の一つだ』
ハミルトンの重々しい、地を這うような低音が特別会議室に響き渡る。
『現状、世界においてA級以上の出現を事前に探知する手段はただ一つ。英国の至宝、ソフィア嬢の【隔絶魔法】による、わずか数十分前の感知。そこから世界機構を経由し、同盟国へ緊急連絡を回す――このプロセス以外に、人類が死神の鎌を避ける術はない』
それは、世界機構が世界機構たる所以であり、絶対的な権威の源泉そのものでもあった。
『いつ、どこに化け物が現れるか』。その唯一無二を独占しているからこそ、各国の魔法科支部は世界機構の風下に甘んじ、その指示を仰がざるを得ないのだ。
『それを踏まえた上で、最後に問おう』
ハミルトンの冷徹な瞳が、獲物を追い詰める鷹のように鋭く細められた。
『日本支部は災害訓練を実施している最中に、アンヴァーの襲来を“感知”した。そしてそこから対A級の迎撃態勢へと移行した――相違ないな?』
それは、極めて巧妙に張り巡らされた誘導尋問(罠)だった。
もしここで柊が不用意に「はい」と答えれば、それは「日本支部が国連のシステムを通さず、独自に襲来を感知する手段を有している」と自白したも同然。
逆に「いいえ」と答えれば、「感知すらしていないのに、なぜあのタイミングで実戦への移行が完璧にできたのだ? 偶然で片付けるには無理がある」と、その不透明さを徹底的に糾弾されることになる。
世界機構が独占すべき『神の目』を、極東の島国が密かに隠し持っているのではないか。その疑念を確信に変えるための、逃げ場のない問いだった。
――しかし。
この日本という地で、魑魅魍魎が跋扈する政治の荒波を渡り歩いてきた柊の鉄仮面は、その程度の揺さぶりでひび割れるほど脆くはなかった。
「はい」
柊は、一切の淀みなく、鏡のように静かな声で口を開いた。
「今回、アンヴァー災害避難訓練を実施している最中に――“国連本部”より、A級出現の公式通達を受理いたしました。これを受け、我々は速やかに現地の魔法少女による対応を開始した次第です」
『…………』
その瞬間、モニター越しのハミルトンの眉間が、微かに、けれど確かに不快そうに動いた。
周囲の理事たちも、苦虫を噛み潰したような顔で一様に口を噤む。
完璧なまでの、論点のすり替え。そして、絶対に崩しようのない『公式記録』の提示だった。
柊は「日本が独自に感知した」とは一言も言っていない。
あくまで『国連(ソフィア嬢)が感知した情報を、適切なルートで受け取ったから、我々は迅速に動けたのだ』――つまり、日本支部の初動が早かったのは、ひとえに世界機構の連絡が迅速で、ソフィア嬢の探知が優秀だったからだと、称賛してみせた。
「他にご質問はございますか? 事務総長」
我々が大規模な避難訓練を実施していたのは紛れもない事実。そして、その訓練中に国連から”警報”が鳴ったから、現場の魔法少女を即座に向かわせた……。公式な手順としては、何一つとして瑕疵はない。
柊は腹の底で冷笑する。
実際には、現場の雅から一報を受け、国連の警報が鳴る『よりも前』に、独断による超法規的措置で避難訓練を強行したのだ。だが、書類上のタイムラインにおいては、あくまで「訓練中」に「警報」を受理し、「対応した」という完璧な筋書きが完成している。
これ以上日本支部を追及するなら、世界機構側は「自分たちの警報よりも早く、日本が避難を終えていた証拠」を突きつけなければならなくなる。
”たまたま”避難訓練を行っていたと言い張る以上、その偶然を否定する術など、この世のどこにも存在しない。それは悪魔の証明だった。
柊が提示した「公式記録という完璧な盾」を前に、モニター越しの重鎮たちは押し黙った。
『……ふむ。私からはこれ以上はない。他にあるか?』
事務総長であるガブリエル・ハミルトンが、周囲の理事たちへと視線を巡らせる。
欧州の白髭も、他国の代表たちも、一様に苦虫を噛み潰したような顔をして沈黙を保っていた。これ以上日本支部を突き上げても、書類上の不備を突くことは不可能だと悟ったのだ。
『ないようだな。では、今回の件は以上とする。』
ハミルトンが淡々と審議を締めくくろうとしたその時、柊は内心で小さく安堵の息を吐こうとした。
――だが。
通信を切断する直前、ハミルトンの氷のような瞳が、再び真っ直ぐに柊を射抜いた。
『……ああ、日本支部長、今回の件にも、少なからず関わることだが――』
ハミルトンは、まるで日常の些事でも語るかのように、しかし極めて意図的に、ゆっくりとその『名前』を口にした。
『日本支部の魔法少女、『さいか』という少女に……今後も大いに期待している。以上だ』
「っつ!?!?」
プツンッ。
モニターが一斉に暗転し、特別会議室に完全な静寂が戻る。
だが、柊の身体は、鉄仮面を被ったまま岩のように硬直していた。額から、一筋の冷や汗がツーッと不吉な軌道を描いて流れ落ちる。
(……馬鹿な。もう、『名前』を把握しているというのか……!?)
今回の件での正式な報告書には、まだ現場に出た魔法少女のパーソナルデータなど一切記載していない。
それなのに、世界の頂点はすでに、今回のA級討伐の中心として「さいか」という個体が存在していることを、正確に嗅ぎつけていたのだ。
(あの老狐……。最初から、我々の情報統制などお見通しだったというのか)
「偶然の避難訓練」という白々しい言い訳をあっさり引き下がったのも、最初から日本支部を問い詰める気などなかったからだ。
彼らの真の目的は、「日本支部が隠し持っている特級戦力の存在に、我々はすでに気づいているぞ」という、逃れようのない圧力を叩きつけることにあったのだ。
「……くそっ。どこまで耳が早い連中だ」
柊は無人の会議室で、ギリッと奥歯を噛み締めた。
世界機構という巨大な監視の目は、すでに彼女の頭上へ、逃れようのない照準をピタリと合わせていた。




