第72話 超感覚
ドクドクと不気味に脈打つ巨大コアが鎮座する、『天蓋の鯨』の最深部。
ビュンッ! ヒュバァッ!!
赤黒い肉壁に囲まれた大空洞の中を、ゴムのように伸びる不気味な腕が、鋭い鞭のような軌道を描いて縦横無尽に荒れ狂っていた。
それを放つのは、コアを守護する虚無の瞳を持つ人型アンヴァー――通称『嘘つき人形』だ。
「チッ……!」
才牙(俺)は鋭く舌打ちし、スカートを翻して大きくバックステップを踏んだ。
直後、鼻先数センチのところを、ギザギザの歯を剥き出しにしたピノッキオの拳が凄まじい風切り音と共に掠めていく。
(リーチの終着点が読めねぇ。どこまで、いつまで伸びるんだアイツの腕は……)
常に超近接戦闘で敵を圧倒してきた、第七地区最凶番長たる才牙が、今は一転してアウトボクサーのように距離を取り、安全マージンを確保しながらの『回避』に専念していた。
一度、あの理外の打撃を貰ったことで、変幻自在な間合いの伸縮に対する警戒レベルを最大まで引き上げているのだ。
だが、そんな俺の――珍しくも極めて「慎重」な立ち回りを見て、天井付近に避難しているチーポが、空気も読まずにヤジを飛ばしてきた。
「何しとるんや才牙!! 逃げ回らんと、おまん自身を『バリア』で囲めば、あんな攻撃余裕やないか!!」
「はん! 黙ってろクソキノコ!! 余計な口出しすんじゃねぇ!!」
俺は死角から飛んできたピノッキオの足(蹴り)を、寸前で体を捩って躱しながら、頭上の無責任なキノコに向けて怒鳴り返した。
(冗談じゃねえ。あんなシャボン玉みたいな『うっすい膜』なんぞ、いつ破られるか知れたもんじゃねえだろうが!)
周囲の魔法科の連中――柊や雅たちは、俺の張るバリアを『空間遮断』だの『隔絶魔法』だのと大層な名で持て囃しているが、当の本人である俺はそんなモン微塵も信用していなかった。
だって、見た目が完全にただの透明な膜なのだ。番長としての経験が”あんなモン、気休めにもならねぇ安物だ”と絶えず警鐘を鳴らしている。
(現に、前回戦ったあの『ノーマッド』――キリカには、普通に紙切れみたいに破られてるしな!!)
思い出すだけで腹が立つ。あのイカれた女の斬撃の前では、俺の「バリア」はあっさりと切り裂かれたのだ。あんな紙装甲を信じて、この得体の知れないアンヴァーの変則攻撃を真正面から受けるなど、正気の沙汰ではない。
才牙は、他人の評価という名の『魔法』ではなく、己が積み上げてきた肉体と動体視力、そして喧嘩の直感のみを頼りとした。
人型アンヴァーが繰り出す変幻自在の猛攻。その嵐のような隙間を潜り抜け、反撃の糸口を掴もうと、五芒星が浮かぶ瞳孔を鋭く細める。
――ただの「うっすいバリア」だから信用できない。
それに加え、才牙の天性の直感――第七地区の最凶番長として君臨してきた『勘』が、バリアの使用に対してもう一つの警鐘を鳴らしていた。
(そもそも……今の状態でさらに自分にバリアを張るってのは、なんかスゲェ嫌な予感がするんだよな)
今、外の世界では、俺が張った巨大なドーム状のバリアがこの大鯨を丸ごと閉じ込めている。
その『檻』のど真ん中で、さらに自分自身をバリアで包み込む――魔法の理屈なんてものはサッパリわからないが、密閉空間の中でさらに密閉空間を作るような真似(マトリョーシカ状態)をすれば、何か致命的なバグ、あるいは魔力の暴走でも起きるんじゃないかという、本能的な忌避感があった。
……。
飛んでくるピノッキオの異常に長い腕を、紙一重のバックステップで躱しながら、俺は心の中で毒づくのをやめた。
(……まあ、結局のところ――)
俺の口角が、自然と三日月型に吊り上がっていく。
誰もが見惚れるような、色素の薄いサラサラの銀髪に、澄み切ったスカイブルーの美しい瞳。そんな愛くるしい超絶美幼女の貌に、どう取り繕っても隠しきれない、純度100%の『凶悪な番長の笑み』が張り付いた。
(自分だけ、ぬくぬくと安全地帯に引きこもって一方的に殴るなんて、そんなだっせぇ喧嘩(死合)――)
俺は床に広がる赤黒い肉を強く踏みしめ、回避の姿勢から、肉薄の構えへと一気に重心を落とした。
両の拳を顔の前に掲げ、かつて第七地区で百人の不良を絶望の淵に叩き落とした、あの夜と同じ猛禽類の眼光で、目の前の化け物を睨み据える。
(死んでもごめんだよなぁ!!!)
何もしなくても傷つかない喧嘩なんて、ただの退屈な作業だ。
血が沸き立ち、骨が軋むようなギリギリの命のやり取り。相手の拳が放つ風圧を肌で感じ、その喉元に特大のカウンターをぶち込むからこそ、最高に面白い。
ビュンッ!! ドババババンッ!!
大空洞の赤黒い肉壁を無慈悲に抉りながら、『嘘つき人形』の黒い拳が止めどなく襲い掛かってくる。
才牙は独楽のように身体を高速回転させ、スカートを花びらのように舞い踊らせながら、その猛攻を紙一重で『受け流して』いた。
(……攻撃の出所も、タイミングも、狙いも完全に視えてる。読めねぇのは、あのクソ長いリーチがどこまで伸びるか、それだけだ)
あの不気味な腕には、そもそも物理的な限界など存在しないのかもしれない。
端から見れば華麗にすべてを躱しているように映るだろうが、実際は拳の軌道をギリギリで弾き、『受けて』は『流す』作業の繰り返しだ。完全に威力を殺しきれているわけではなく、手足に蓄積していく微細なダメージは確実に積み重なっている。このまま凌ぎ続ければ、いずれは磨り潰されるように押し負けるだろう。
――しかし。
死地においてなお、俺の脳内を占めていたのは、敗北への焦りではなく、自分自身に対する激しい苛立ちだった。
(チッ……! やっぱ異常だろ、この身体……っ!)
魔法少女――もとい、魔法幼女の身体。
俺がこの姿への変身を極端に忌避している理由は、第七地区の番長として、本来の男らしい体格であるはずの自分が、こんな惨めなぷにぷにの幼女の姿に成り下がる屈辱に耐えられないからだ。万が一正体が露呈すれば、積み上げてきたプライドは二度と戻らぬほど瓦解するだろう。
だが、俺がこの姿を心の底から嫌悪している『本当の理由』は、そんな外面の問題ではなかった。
……この魔法少女の身体のスペックが、あまりにも俺に『適合』しすぎているのだ。
元々、喧嘩の直感には絶対の自信があった。だが、ここ最近、俺の感知能力は自分でも引くほど異常な次元へと研ぎ澄まされていた。
その結果、どうなったか。
常人より何倍も鍛え抜き、圧倒的な自信を持っていたはずの元の『男の身体』ですら、その研ぎ澄まされた感知能力に、肉体の反応速度が追いつけなくなってしまったのだ。
(元の身体だと、脳が危険を感知しても、重い肉体が実際に動くまでに、ほんのわずかな『ズレ(ラグ)』が生じていた……。だが……)
パァンッ!!
背後の死角を狙った、ピノッキオの変則的な蹴り。それを、俺は振り返りもせずに、小さな踵を跳ね上げて完璧なタイミングで弾き落とした。
激しい戦闘を重ねれば重ねるほど、嫌でも理解させられてしまう。
この、風が吹けば折れてしまいそうな細っこい魔法幼女の身体は、俺の規格外の感知能力に対し、コンマ一秒の遅れもなく、寸分違わず完璧に連動してしまうのだ。
強靭な男の肉体よりも、魔法で造られた虚構の幼女の身体の方が、俺の魂(本能)に『しっくりきてしまう』。
その事実が何よりも、死ぬほど忌々しかった。
「あー、クソッ! 腹立つぜ!!」
自身の異常な感知能力に、一切のラグなく追従してしまう「魔法幼女」の肉体。
その忌々しすぎる事実に苛立ちを募らせながらも、才牙は死地たるインファイトの間合いへと、あえて自ら踏み込んでいった。
その真っ向からの挑発に対し、コアを守護する『嘘つき人形』は、ひどく忌々しそうな不協和音を大空洞全体に響かせた。
『○*(/.5…4(22552(¥.71☆☆.225577.°^*=(°』
頭上でフワフワと逃げ回っていたチーポが、短い手足をバタつかせながら、半泣きで俺の頭にしがみついてくる。
「『このまま、すり潰す』って言っとるわ!! 本当に大丈夫なんか才牙ぁ! 完全に間合いに入っとるでぇ!!」
ギャーギャーと騒ぐポンコツキノコの喚き声を、俺は完全に意識の外へと締め出す。
極限まで高まった集中力が、不快なノイズすら遠ざけ、視界を極彩色に研ぎ澄ませていく。
俺の双眸は、正面から迫り来る黒い拳だけを、静かに、そして冷徹に見据えていた。
(……タイミングも狙いも、全部視えてる)
最凶番長の直感という名の、未来予知に近い超感覚。
敵の肩の肉が微かに爆ぜる予兆、視線の微動、そして殺気が指向するベクトル。それらすべてが、俺の脳内に「次の一撃」という正解を叩き出してくる。
元の男の身体なら、わかっていても肉体が追いつかず、被弾を覚悟で防御に回るしかなかっただろう。
(……だが、この忌々しい身体(魔法幼女)なら――!)
グチャァッ……!!
『嘘つき人形』の腕が、あの生理的な嫌悪感を煽る音を立ててゴムのように急激に伸長する。
距離感を一瞬で無に帰す、視認不可能なはずの超高速・変則打撃。
だが、今の俺の目には、それがまるで泥の中を泳ぐスローモーションのように、克明に、ハッキリと映り込んでいた。
拳が俺の顔面を捉え、完全に「肉を砕いた」と誰もが錯覚した、その刹那。
――スッ。
銀髪が、スカートが、ふわりと幽霊のように揺れた。
俺は首をミリ単位で傾け、同時に重心をわずか数センチだけ沈めると、流れるように上体を捻った。
たったそれだけの、装飾を一切削ぎ落とした最小限の転身。
ヒュッ……!
必殺であったはずの『嘘つき人形』の拳は、俺の肌を掠めることすら叶わず、虚空を虚しく切り裂いた。
残像すら置き去りにする、物理法則を嘲笑うかのような神速の回避。
絶対のリーチを誇る自慢の攻撃を、いとも容易く、それも「最小限の動き」で躱された『嘘つき人形』の濁った瞳が、信じられないものを見たかのように驚愕に染まる。
『/-/-』
感情のないはずの化け物が、明確な『戦慄』を露わにした。
無防備に伸びきった敵の腕のすぐ脇を、すり抜けるように潜り込む。
俺はインファイトの絶対距離に潜り込み、猛禽類のような凶悪な笑みを浮かべた。
「見てから回避も余裕、ってなぁ!!!」
魔法幼女の肉体スペックと、最凶番長の戦闘センスが、完全融合した瞬間。
「不可避の黒拳」を無力化され、硬直する『嘘つき人形』の懐深くで、才牙の反撃の拳が、限界まで引き絞られた。




