第69話 精霊シルフ
才牙とチーポが大鯨の体内で「フィーバータイム」を心ゆくまで堪能していたその時。外の世界――『空間遮断』のドーム内に広がる戦場は、奇妙な静寂に包まれていた。
『ブモォォォォォォォォ……』
上空では、A級アンヴァー『天蓋の鯨』が、まるで勝利の凱旋パレードでも執り行っているかのように、悠々と空を泳いでいた。
自分を一方的に叩きのめしていた不倶戴天の敵――さいかを完全に排除(捕食)したと確信し、その巨体からは先ほどまでの焦燥や怒りが綺麗に消え失せている。
自身がドームという不可視の檻に閉じ込められていることすら忘れ、悠然と巨大な尾びれを揺らす姿は、まさに空の王者の風格を取り戻していた。
だが、地上からその姿を鋭く睨みつける刹那と風香の瞳に、絶望の色は微塵もなかった。
その時、二人のインカムに指揮車からの通信が割り込む。
『刹那、風香。聞こえはるか?』
スピーカーから流れてきたのは、いつもの雅の、凛として冷静な声音だった。
「おう、聞こえてるぜ」
「は、はいっ! 繋がっていますっ!」
『……おそらく、さいかはんは大鯨のコアを直接叩くために、あえて自らその胎内へと飛び込んだんやわ』
雅の冷徹な分析(という名の、あまりにも壮大な勘違い)が、全軍の通信網に共有される。
『まだ大鯨は体内の「毒」に気づいとらへんようやけど、腹の中で暴れられれば、いずれ耐えきれんくなる。そうなれば、異物を体外へ排出しようとするのは必然や。……うちらの仕事は一つ。大鯨がさいかはんの真意に気づかんよう、外からガンガン叩いて気を引くんや!』
外側からの刺激を極限まで強め、内側の異変から意識を逸らさせる。
それは、決死の覚悟で敵の懐に飛び込んだ孤独な英雄(※実態はただの強欲な番長)を援護するための、「陽動作戦」の命令だった。
「流石はさいか様……っ!! あんな恐ろしい化け物の腹の中に自ら飛び込むなんて!!」
風香は杖を握る両手を胸の前で固く組み、感動のあまり大きな瞳からボロボロと涙をこぼした。
つい先刻まで恐怖の象徴だった巨大な鯨を見上げても、もはや彼女の心は崇拝の念で満たされ、一分の揺らぎも残っていない。
「はん。まあ、あのクソガキが、単純にヘマしてマヌケに喰われただけだとは思ってねぇがよ……」
刹那は重厚なモーニングスターを肩に担ぎ直し、不敵に口角を吊り上げた。
吐き捨てるような皮肉とは裏腹に、その横顔には「相棒はまだ生きている」という確信と安堵の色が、はっきりと刻まれている。
「本当、無茶苦茶やりやがるぜ。……上等だ。中からの仕事が片付くまで、外側の風通しはアタシらが嫌ってほど良くしてやるよ!!」
外に残された者たちの覚悟は、今、完全に一つへと結集した。
大鯨の注意を引くための「外からの陽動作戦」。
雅の指示に威勢よく応えた刹那だったが、モーニングスターを肩に担ぎ直し、内心では忌々しげに舌打ちをしていた。
(……言うのは容易いが、実際どうやってヘイトを取る?)
相手は悠々と空を泳ぐ超巨大生物だ。
刹那のモーニングスターは一撃必殺の威力を秘めているが、あくまで接近戦が主体の武装。いかにしてあの巨体を引きずり下ろすか。悩む刹那の横で、唐突に気の抜けた音が鳴った。
ポンッ。
「姉さん、戻ったぜー……。あー、死ぬかと思ったわ」
虚空からふらふらと現れたのは、頭がパイナップルの形をしたチンピラ風の妖精・パーナポーだった。
彼は先ほどの掃討戦の際、風香が放った見境のない大竜巻に巻き込まれて目を回し、今まで妖精空間でダウンしていたのだ。
「ん? ああ、パーナポーか。ようやく起きやがったか」
刹那が相棒の復帰に冷たく応じた、その時だった。
ゴォォォォォォ……ッ!!
突如として、戦場に猛烈な突風が吹き荒れた。
ただの風ではない。肌が粟立つほど高密度に圧縮された『魔力』を帯びた暴風。それが、杖をぎゅっと抱え直した風香の目の前で、小さな竜巻となって渦巻き始める。
「な、なんだ!? この規格外の魔力は……ま、まさか!!」
パーナポーがパイナップルの葉を逆立て、驚愕の声を上げた。
やがて、荒れ狂う風の中から、健やかで大人びた、まるで女神のように慈愛に満ちた女性の声が響き渡る。
『ふふふ。風香……頑張っているようですね。あなたの勇気、見ていましたよ』
風がスッと晴れ、その中心から一体の「妖精」が姿を現した。
いや、それは普通の妖精よりも一回り以上大きく、そしてあまりに奇妙な姿をしていた。
全体的なシルエットは、ワンピースのような可憐な服を纏った『風車小屋』そのもの。
胸の前で両手を祈るように静かに組んでおり、顔には可愛らしいボタンのような目がついている。
だが、鼻があるべき位置に『巨大な風車』が備え付けられており、それが風を受けて勢いよくクルクルと回っているせいで、明らかに視界の邪魔になっていそうだった。そして、その風車の中心部には、純度の高い美しい緑色の宝石が神々しい光を放っている。
その圧倒的な存在感に対し、風香は極めて気さくに手を振った。
「あー、シルフさん、いらっしゃーい!」
「し、し、し……シルフ様ァァァァッ!!?」
ドサァッ!!
パーナポーが空中で錐揉み回転し、そのままアスファルトに額を擦り付ける『空飛ぶ土下座』を敢行した。
無理もない。風香が「シルフさん」と呼んだこの風車小屋――彼女は最高位の妖精の一角であり、妖精界においてはもはや『精霊』のカテゴリーに属する伝説的な存在なのだ。
風車小屋の姿をした精霊シルフは、顔の真ん中の巨大な風車をカラカラと軽快に回しながら、風香へと優しく語りかけた。
「ふふふ。風香、どうやら困っているようですね?」
その声音は、高位の存在特有の威圧感など微塵も感じさせず、まるで慈愛に満ちた母か、あるいは親しみやすい姉のような温もりに溢れていた。
地面に額を擦り付けたままガクガクと震えているパーナポーとは対照的に、風香はコクリと素直に頷き、遥か上空を指差す。
「うん。シルフさん、あの鯨さんの気を引かないといけないんだけど……」
風香の切実な言葉を受け、シルフは顔の風車の隙間から覗く可愛らしいボタンのような目で、上空を泳ぐA級アンヴァーをキッと鋭く睨みつけた。
「なるほど、空を飛ぶ鯨……さながら『巨大空中要塞クジラ1号』。実に厄介な強敵です」
(だ、だせぇ……っ!!)
シルフの口から飛び出した、昭和の特撮ヒーロー番組に出てくるやられメカのようなネーミングセンスに、刹那の脳内で痛烈なツッコミが炸裂した。
神々しいオーラと威厳に満ちた声色から放たれたその言葉のギャップに、刹那は吹き出しそうになるのを必死で堪える。だが、当の風香は至って真剣な表情のまま「クジラ1号……」と、その奇妙な名前を不思議そうに反芻していた。
精霊と天然が織りなすカオスな空間に眩暈を覚え始めた刹那をよそに、シルフは慈しむように風香へアドバイスを送る。
「風香。空は私たちのテリトリーです。ですが、強風による『攻撃』だけが私たちの真価ではありませんよ」
「私たちの、テリトリー……?」
キョトンとして小首をかしげる風香に対し、シルフは風車をさらに勢いよく回しながら上空を指し示した。
「そして、よく観察してみなさい。あの敵の様子を」
促されるままに、刹那と風香が改めて大鯨を見上げる。
悠然と空を泳いでいるように見えた大鯨だったが、その頭頂部に生えた巨大な角が、不自然な明滅を繰り返していた。
チカッ……チカチカッ……!
深緑色に輝き、傷ついた肉体を一気に修復しようと「超再生」の波動を放とうとしている。だが、さいかの理不尽なまでの拳撃によって無惨に粉砕されかけた角は、痛々しい金色のまま、まるで接触不良の電球のようにバグり散らしていた。
「あれは……! 超回復が、不発になってるのか!?」
刹那が驚愕の声を上げた。
先ほど、さいかが執拗にあの角を殴りつけていたのは見ていた。だが、まさかA級アンヴァーの誇る絶対的な自己修復機能そのものを、ただの『物理攻撃』で機能不全に追い込んでいたとは。
「どうやら、さいかという少女は、あの中へ向かう前に最高級の『置き土産』を遺してくれたようですね」
シルフが感心したように、深く、そして慈愛の籠もった声でその功績を褒め称えた。
回復手段を物理的に断ち、敵を弱体化させてから、自らは無防備となった最深部のコアを仕留めに向かう。外から見れば、それはあまりにも完璧に計算され尽くした戦術的布石だった。
「流石はさいか様……っ! 全部、最初から計算ずくだったんですね!!」
風香は両手を固く組み、うっとりと心酔した瞳で灰色の空を見上げた。
頼もしい『置き土産』を確認したのも束の間、精霊シルフは顔の中央にある風車をカラカラと静かに回し、警告を含んだトーンで言葉を継いだ。
「とはいえ、アンヴァーには生物としての根源的な自己再生能力も備わっています。いずれあの大角のヒビが塞がれば、再びあの厄介な『超再生』が発動することでしょう」
猶予は永遠ではない。明確なタイムリミットを突きつけられたその言葉に、刹那は肩に担いでいた鉄球をドサリと下ろし、猛獣のような獰猛な笑みを浮かべて吠えた。
「はん!! ガキンチョにここまでお膳立てされてて、『出来ません』なんて口が裂けても言えねえよなぁ!? なあ、風香!!」
「はいっ!! 私……やってやります!!」
二人の瞳に、迷いのない鮮烈な闘志の炎が灯る。
気合いを入れ直した風香は、先ほどシルフが授けてくれた助言――『空は私たちのテリトリー』という言葉を、祈るように脳内で反芻していた。
(空が、私たちのテリトリー……それなら、直接殴るだけが戦いじゃない!)
風香は愛用の杖を両手で強く握り締め、深く、長く呼吸を整えた。
そっと目を閉じ、周囲の大気に満ちる膨大な魔力の奔流を感じ取る。そして、自らの内側に眠る魔力を『直接的な攻撃』としてではなく、世界を形作る「空そのもの」へと干渉させるべく一気に解き放った。
「シルフさん、お願いします……っ!」
ゴォォォォォォォォンッ!!
突如、上空の空気が突然、異様な震えを起こした。
直後、悠然と空を泳いでいた『天蓋の鯨』の巨体が、まるで不可視の巨大な重りでも括り付けられたかのように、ガクンと無様に真下へ落下したのだ。
『ブ、ブモォォォォォォォ……ッ!?』
鯨はパニックに陥ったように巨体を激しく捻り、体内の魔力を過剰に放出してどうにか空中で踏みとどまる。だが、その挙動は先ほどまでの優雅さとは程遠い。まるで目に見えない強固な蜘蛛の巣に絡め取られたかのように、その動きは鈍く、ひどく苦しげだった。
「な、何したんだ!? 風香、今のは……!?」
敵の明らかな異常事態を目の当たりにし、刹那が驚愕の声を上げる。
「あの巨体です! 浮力を保つために、おそらくかなり緻密な魔力操作で気流を操っているはずだと思い……『クジラ1号』の周囲にある魔力の流れを、私の魔法で強制的に『攪乱』したんです!!」
風香は、シルフの壊滅的なネーミングセンス(クジラ1号)を一切の違和感なく使いこなしながら、誇らしげに幼い胸を張った。
「これで大鯨は、まるでドロドロの沼の中を泳いでいるような感覚のはずです!!」
「マジかよ……発想がエグいぜ……!」
刹那は戦慄した。空を飛ぶ敵に対し、空という「概念」そのものを泥沼に変えてしまう。これこそが、伝説の精霊シルフの認めた風香の、真の恐ろしさだった。
「まだです! 刹那さん、動かないでください!」
風香が軽やかに杖を振るうと、春の陽だまりのような温かい一陣の風が刹那の背中を包み込む。
すると、刹那の肩甲骨あたりから、光を透かしてエメラルド色に輝く『透明な風の羽』が二枚、パタパタと愛らしく、しかし力強く生え出したのだ。
「な、なんだこれ!? 体が羽毛みたいに軽いぞ!?」
「飛行魔法のサポートです! これで、いつもよりずっと速く、自由に空を駆けることができるはずです!!」
敵の機動力を泥沼の底へと引きずり込み、味方の機動力をブーストさせる。
戦況を一変させる、完璧なまでの戦術的支援(バフ&デバフ)。
自身の背中で力強く羽ばたく風の感触を確かめ、刹那は特攻隊長としての血が沸騰せんばかりに沸き立つのを感じた。
「はん! やるじゃねえか風香!!」
刹那はモーニングスターを豪快に振り回し、もがき苦しむ大鯨に向かって高らかに宣戦布告をした。
「機動力を奪われたてめーなんざ、ただのデカいサンドバックだ! 相棒が中からぶち破って出てくるまで、死ぬほど可愛がってやるぜ!!」




