第62話 顕現A級アンヴァー『大鯨』
避難が完了し、無人と化した街。
ビル風だけが吹き抜ける不気味な静寂の中、俺たち魔法科の面々は、迎撃ポイントである高層ビルの屋上に陣取っていた。
「……!」
刹那がモーニングスターを力強く構え、風香が杖を握りしめて天を仰ぐ。現場には、今まさに決戦を迎えようとする、張り詰めたような緊張感が漂っていた。
「…………」
だが、その輪の中で、俺だけが露骨にテンションを下げていた。
理由は単純。完全に「みんなで力を合わせて倒そう!」という熱い空気が出来上がってしまい、今更「一人で戦いたい」と言い出せなかったのだ。
(……チッ。A級アンヴァーなんて魔法ポイントの塊、俺一人で独占すれば、100憶に相当近づく額になったのによぉ)
ポイントを三等分、あるいは組織への上納も含めれば、さらに目減りするかもしれない。俺は心の中で激しく舌打ちをし、この感動的な共闘路線を呪った。
――その時だった。
ギィィィィィィィィンッ!!
世界が、割れた。
先ほどまで爽やかだった空気は突如として重苦しく澱み、青い晴天は墨を流したような暗雲に一瞬で覆われた。
そして頭上の空が「悲鳴」を上げた。ガラス細工のように大気に亀裂が走り、バリバリと空間が裂ける轟音と耳をつんざくような高周波が周囲を支配する。その裂け目が、黒く奈落のように大きく開かれた。
「――来た」
俺の呟きと同時に、その「穴」から、絶望がこぼれ落ちてきた。
ズズズズズズズ……ッ!!
現れたのは、巨大な質力の塊だった。
形は地球の生物で言えば「鯨」に似ている。だが、その表皮は半透明で、内側から淡く不気味な燐光を発していた。
頭部には、全てを見透かすような巨大な単眼が一つ。その周囲には、フジツボのように無数の複眼がびっしりと張り付き、ギョロギョロと独立して蠢いている。
背後には長く伸びた二本の尾びれが揺らめき、額からは、天を貫くような禍々しい巨大な角が生えていた。
「……デカすぎんだろ」
刹那の声がわずかに震えた。
空を覆い尽くすほどの巨体。A級アンヴァー『大鯨』。
それは、ただそこに浮いているだけで都市を押し潰せる、生きた災害そのものだった。
「さいかはん!!」
インカムから、雅の鋭い声が飛んだ。それは恐怖ではなく、獲物を逃がさないための合図。
「……うん」
俺はニヤリと不敵に口角を上げ、右手を高く掲げた。
パチンッ!!
乾いた指パッチンの音が、戦場の静寂を切り裂いて響き渡る。それと同時に、世界がふわりと輝くシャボン玉のような薄い膜に包まれた。
ブゥゥゥン……ッ!!
俺たちと、空に浮かぶ巨大な『大鯨』を包み込むように、巨大な半透明のドームが展開される。
先ほどの倉庫とは比べ物にならない、都市の一区画を丸ごと切り取る超広域の『空間遮断』。
物理法則も、魔力も、音すらも遮断する、絶対的な「檻」の完成だ。
鯨が異変を察したように巨躯をくねらせ、巨大なヒレで空間の壁を叩くが、その絶大な衝撃は波紋一つ残さず無慈悲に吸収される。外の世界への逃走経路は、今この瞬間、完全に断たれた。
「もう、テメェの逃げ場はねぇなぁ!!」
俺は屋上の縁に足をかけ、頭上の怪物を見上げた。
その顔に張り付いていたのは、もはや可愛らしい幼女の笑顔ではない。100億という果てしない魔法ポイントを目標とした、凶悪極まりない捕食者の哄笑だった。
「さあ、狩りの時間だぜ……! たっぷり吐き出してもらうからな、デカブツ!!」
先陣を切ったのは、自信を取り戻したばかりの「破壊の申し子」こと、小鳥遊風香だった。
「行きますっ!! さいか様が見ている前で、無様な真似はできません!!」
彼女は杖を天に突き上げ、気合いと共に膨大な魔力を解き放った。
ゴオオオオオオオオオッ!!
発生したのは、ただの風ではない。周囲の空気そのものをねじ切り、巨大なドリルと化した「大出力の竜巻」だった。螺旋を描く暴風の刃が、天蓋を覆う鯨の横腹へと真正面から突き刺さる。
グチャッ! バチバチバチッ!!
鯨の体表にびっしりと張り付いていた無数の複眼が、逃げ場のない風圧に耐えきれず、次々と弾け飛ぶ。熟れすぎた果実が潰されるように、不気味な色の体液が周囲に撒き散らされた。
「オラオラオラァ! 目ぇ逸らしてんじゃねーぞデカブツ!!」
その混乱の隙を、歴戦のヤンキーが見逃すはずがない。
風香が放った暴風を目くらましにして、特攻服を翻した刹那が空へと高く飛び出した。その手には、巨大な棘付き鉄球――モーニングスターが死神の鎌のごとく唸りを上げている。
「テメェの、その自慢のデカイ目ん玉……!!」
刹那は遠心力を極限まで乗せ、自らの身体ごと回転しながら一直線に突っ込んだ。
「かち割ってやるよォォォッ!!」
ドゴォォォォォォンッ!!
重厚な、あまりに重い打撃音が戦場に響き渡る。
鉄球の鋭い棘が、鯨の顔面中央に鎮座する巨大な「単眼」の中心へと、深々とめり込んだ。硝子が粉々に砕け散るような音と共に、水晶体らしき組織が内側から粉砕され、周囲には激しい衝撃波が吹き荒れる。
『ギィィィィィィィィィィィィィィッ!!!』
世界を揺るがすような、鼓膜を劈く絶叫。
空に浮かぶ巨体が大きくのけぞり、苦痛にのたうち回りながら激しく身悶えする。
風香の暴風と、刹那の鉄槌。
二人の猛攻を受け、悶絶していたはずの天蓋の鯨だったが、その巨大な単眼が憎悪に歪んだ。
『ギョオオオオオオオオオッ!!』
空気を震わす咆哮と共に、鯨の額から突き出た巨大な「角」が、神々しくも禍々しい『黄金色』へと変化し、バチバチと激しいスパークを放ち始めた。
「ッ!? ヤバイ、離れろ二人とも!!」
刹那が直感的に叫び、身を翻す。
次の瞬間、角が目映いばかりに発光した。
ドガァァァァァァァンッ!!
あたりの空気が一瞬でプラズマ化し、無数の雷撃が雨のように降り注いだ。
ビル街を焼き尽くす紫電の檻。逃げ場のない落雷の乱舞に、風香は「ひぃっ!」と悲鳴を上げて杖の下に縮こまり、刹那は舌打ちしながら空中をジグザグに飛び回って必死の回避行動を取る。
「クソッ! 範囲攻撃かよ!」
だが、絶望はそれだけではなかった。
雷撃の嵐が止むと同時に、今度は角の色が、柔らかな『深緑色』へと変色したのだ。
フォォォォォォォ……ッ
鯨の全身が、淡い癒やしの光に包まれる。
すると、風香の竜巻で抉られた横腹の傷が、刹那の鉄球で砕かれた単眼が、見る見るうちに修復されていくではないか。
その間、ほんの数秒。瞬きする間に、A級アンヴァーは完全に無傷の姿へと戻っていた。
「……は?」
刹那が呆然と声を漏らす。
あれだけの攻撃を、命を削るような一撃を叩き込んだのに、まるで無意味だったかのような圧倒的な回復力。
これがA級。単なる巨体だけではない、理不尽な生命力と「権能」を持つ災害指定生物の正体。
「回復……ですか……?」
風香の顔から、サーッと血の気が引いた。
ダメージを与えても、一瞬で元通りに蘇る敵。それは、戦う者にとって最も心が折れる絶望の体現だった。
A級アンヴァー『大鯨』。
さらに、その巨体が持つ脅威は、雷撃や再生能力だけではなかった。
『ブモォォォォォォォォ……ッ!!』
鯨が再び大きく身を震わせると、背中にある巨大な呼吸孔が、ドロリと不気味に大きく開いた。
来るか、再びの広範囲攻撃か――誰もがそう身構えた。
ブシュゥゥゥゥゥゥッ!!
噴き上がったのは、海水ではない。
黒く、粘着質な「何か」の奔流だった。
それは空中で飛沫となり、雨のように降り注ぐ……かに見えたが、その一粒一粒が、意思を持っているかのように勝手に動き出したのだ。
「……は?」
空中で回避行動を取っていた刹那が、信じられないものを見る目で凝視する。
空中に無数にばら撒かれた黒い点。
その正体は、先ほど倉庫で駆除した「偵察型」。そして、それよりも一回り大きく、鋭利な爪や牙を持つ「C級アンヴァー」の群れだった。
だが、絶望はそこでは終わらない。
噴出の最後、ドサッ、ドサッと重い音を立てて、数体の巨大な影が屋上に叩きつけられた、甲冑のような頑強な殻を背負った、巨大なヤドカリに酷似した大型アンヴァー。
「……おい、嘘だろ?」
刹那の顔が引きつった。
その威圧感、見間違えるはずがない。通常なら一個小隊で当たるべき中ボス級――「B級アンヴァー」までもが、五体、六体と混じっているのだ。
「あいつ……仲間までいんのかよ!!」
刹那は叫んだ。
単独でも災害級のボスが、あろうことか自身の胎内に軍隊を飼っていたのだ。
分かっては居たが、今回のアンヴァーはただのアンヴァーではない。
敵を生産し、散布する、生ける「要塞空母」だった。
空を埋め尽くすほどの雑魚の群れと、地上に降り立った指揮官クラスの強敵たち。
そして、その中央に君臨する、傷一つない姿へと戻った不死身の鯨。
「……無理ゲーだろ、こんなの」
モーニングスターを握る優生の手が、恐怖ではなく、あまりの理不尽さへの怒りで震えた。
空母のごとく敵を吐き出す『天蓋の大鯨』。
その絶望的な物量を前に、歴戦の刹那ですら一瞬、心が折れかけた。
しかし。その場には、眉一つ動かさず、むしろ獲物を見つけた猛獣のように目を輝かせる者がいた。
そう、さいかだ。
「…………」
俺は無言で地を蹴った。目の前に着地したB級アンヴァーの顔面に、魔力を込めた拳を叩き込む。
ドゴォンッ!!
一撃。
硬質な外殻ごと頭部が木っ端微塵に粉砕され、怪物は悲鳴を上げる間もなく崩れ落ちる。さらに、横から飛びかかってきたC級を裏拳で薙ぎ払い、背後の偵察型をローキックで容易くへし折る。
その動きに迷いも、恐怖も一切ない。ただ淡々と、邪魔な障害物を駆除する「作業」のようだった。
「ッ……!!」
その背中を見て、刹那は自身の頬を強く張った。そして、激しく恥じた。
たかだかA級一匹を相手に、守るべきはずの子供より先に心が折れかけた自分を。
彼女はモーニングスターを握り直し、腹の底から声を張り上げた。
「いくぞ風香! さっきと同じだ、手当たり次第ぶっ殺すぞ!」
「は、はい!! さいか様に続きますぅぅっ!!」
風香もまた、恐怖を崇拝心で強引に塗りつぶし、杖を高く掲げた。
ゴオオオオオオオオッ!!
再び、制御不能の暴風が戦場に荒れ狂う。
それは巨大なミキサーのように、空中にばら撒かれた数百の偵察型とC級アンヴァーを飲み込み、一瞬でミンチに変えていく。荒れ狂う風の刃は、頑強なB級アンヴァーの装甲をも削り取り、その巨体を大きく怯ませた。
「オラァッ!! ガラ空きだぜデカブツ!!」
その隙を、刹那が見逃すはずがない。
風圧で体勢を崩したB級アンヴァーの懐に瞬時に飛び込み、モーニングスターを全力で叩き込む。
ズドンッ!!
胸部のコアが砕け散り、巨体が崩れ落ちる。風香が散らし、刹那が狩る。完璧な連携だった。
その光景の中、次々と湧き出る敵を拳一つで殴り飛ばしながら、さいかは一人、恍惚の表情を浮かべていた。
(……たまんねぇ)
周囲の目からは、勇敢に最前線で戦う英雄に見えているだろう。だが、俺の心中はまったく別の欲望で支配されていた。
(なんだここは? 天国か? 敵が勝手に湧いてくるぞ……! 面倒な索敵も移動もいらない、ただ殴るだけでポイントが向こうから飛んでくる!!)
チャリン、チャリン。
俺の拳が唸るたびに、ポイントが加算されていく心地よい幻聴が脳内に響き渡る。
(ボーナスステージうめえええええええっ!! 100億ポイント、待ってろよォ!!)
俺はあふれ出す喜びを、ただひたすらに拳に乗せて叩きつけ続けた。




