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第27話 やらかし

「あー……やっちまった……」


屋上のフェンスに背を預け、俺、辰宮才牙は冬の空に向かって深く、重い溜め息をついた。 手には購買の激戦を勝ち抜いて手に入れた焼きそばパン。いつもなら至高の報酬であるはずのソースの香りが、今日に限っては、少しも食欲をそそらない。


脳裏をよぎるのは、昨日の放課後の出来事だ。 転校生の佐藤優依――その正体である魔法少女『刹那』が、不良共に絡まれていたあの場面。俺はあろうことか、正体を隠して慎重に監視すべき対象を、真正面から、かつ「一番目立つ形」で助けてしまった。

あの一件以来、教室での居心地は最悪だ。斜め後ろから、優依の――刹那からの、静かな、それでいて何かを探るような視線を背中に感じる気がしてならない。 正体に気づかれたわけではないだろうが、「ただの怖いクラスメイト」から「昨日助けてくれた人」へとカテゴリーが移動したのは間違いない。


「これじゃあ、あいつを監視しにくくなるじゃねーか……。距離を置くどころか、意識されちまってよ」


俺がガシガシと頭を抱えていると、空間の歪みからヌッと現れた成金キノコ――チーポが、三重のサングラスを中指で上げながら、心底呆れたようなツッコミを入れてきた。


「アホやなー。お前、昨日の今日でまだそんなこと言うとるんか。あいつは正式な魔法少女やで? ワイらみたいな『野良』と違って、魔法科で正規の訓練受けとる戦闘のプロや。人目につかん所に行けば、あんなナンパ男なんて骨も残らんくらいボコボコにしてたはずや」

「……だよなー。分かってるよ」


チーポの言う通りだ。 彼女はあの激戦区、第七地区に真っ先に駆けつけた武闘派だ。その気になれば、指先一つで、あの不良どもを異次元まで吹き飛ばすことだってできただろう。俺が出る幕など、最初から――文字通り、1ミリもなかったのだ。


だが。


「……体が、勝手に動いちまったんだ」


そう。頭では「彼女は強い」「これは潜入だ」と理解していても、目の前で女の子が怯え(演技だとしても)、無理やり連れ去られそうになっている。それを見て、「あ、これは魔法科の任務だから」とスルーできるほど、俺は賢くもなければ器用でもなかった。

この街で「番長」として、一人の男として背負ってきた、辰宮才牙という人間の性分だった。


「ほんま、損な性格やで。まあ、今のワイがおるのも、そのお人よしのお陰やから否定はせんけどなぁ」


チーポが黄金の靴をブラつかせながら肩をすくめる。 俺は焼きそばパンをヤケクソ気味に一口齧った。


「……バレなきゃいいんだよ、バレなきゃ」


自分に言い聞かせるように呟く。


ガチャリ。


静寂に包まれていた屋上に、重たい鉄扉が軋む音が響き渡った。


「(屋上に人が来るなんて珍しいな……)おい、糞キノコ隠れてろ」


「しゃーないなー。ワイ、忙しいんやけどなー」


チーポは文句を垂れ流しながらも、ポンっという間の抜けた音と共に虚空へと消えた。俺は反射的に、手に持っていた焼きそばパンを口に放り込み、給水塔の錆びついた影へと音もなく身を滑り込ませる。


(誰だ? 教師か? それとも別のサボり魔か?)


給水塔の縁から、わずかに片目だけを出すようにして視線を走らせる。 現れたのは、黒髪にメガネ、少し猫背気味に自信なさげに歩く地味な女子生徒――佐藤優依だった。


「(なんであいつがここに!?)」


心臓が早鐘を打ち始める。まさか、尾行されていたのか? いや、俺は気配を消すことに関してはプロだ。それにあいつは、さっきまで教室の窓際で、いかにも「日向ぼっこが趣味です」みたいな顔で読書をしていたはずだ。


優依はキョロキョロと小動物のように周囲を見渡し、屋上に自分以外の気配がないことを、それこそ念入りに、慎重に確認した。


そして。


「おー!! ここ、誰もいねえじゃねえか!! ラッキー!!」


その瞬間、彼女の背筋が鋼のようにピンと伸びた。 今までまとっていた「大人しい文学少女」の空気が一瞬で霧散し、代わりに周囲の空気をピリつかせるほどの荒々しい闘気がその体から噴出する。

彼女は鬱憤を晴らすかのように、フェンスの金網をドゴォッ! と乱暴に蹴り上げると、野太くドスの効いた声で絶叫した。


「それにしても、あのナンパ野郎ども、マジでふざけやがって!! 潜入任務中じゃなきゃ、一匹残らず骨の髄までぶっ殺してやったのに! クソがっ!! 」


そこには、眼鏡の奥で狂犬のような鋭い眼光をぎらつかせる、魔法少女『刹那』としての本性が剥き出しになっていた。


「あまつさえ……あんな一般人の男に助けられるとか、この刹那様の、一生の汚点じゃねーかよ!!!」


彼女は重たい前髪をくしゃくしゃとかきむしり、地団駄を踏んで悔しがる。その姿は、まるで獲物を逃した猛獣のようだ。


(あー……やっぱり、相当気にしてたんだな。あのプライドの高さだ、助けられたことが屈辱だったのか)


給水塔の陰で、俺は妙に納得しかけていた。確かに、プロの格闘家が素人の喧嘩に割って入られたようなものだ。彼女にしてみれば、面目丸つぶれといったところだろう。

俺は「早くどっか行ってくれ」と願って俺は再び天を仰ぐ、その時。 地団駄を止めた彼女は、不意に声を潜め、俯き加減になった。


「……まぁ、ちょっと。……ちょっとだけ、良い男だったけどよ」


眼鏡の奥で、彼女の頬がわずかに赤らむのを、才牙は見逃してしまった


「あー、まじふざけんじゃねー!!!! くそがぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」


佐藤優依――いや、刹那は、肺の中の空気をすべて吐き出すかのように咆哮した。どうやら、溜まりに溜まった潜入捜査のストレスと、昨日の屈辱を吐き出すためにここへ来たらしい。


(……これ以上ここにいるのは、地雷原の真ん中で昼寝するようなもんだ)


今は彼女の意識が空と怒りに向いている。この隙に、気配を完全に殺してこっそりと立ち去るのが最善の策だ。俺は心臓の鼓動すら制御し、忍びの「抜き足」で、一歩、また一歩と屋上の扉の方へと移動を開始した。

喧嘩で培った隠密術、完璧なステルス。これなら絶対に気づかれない。 そう確信し、勝利を確信して踏み出した、その次の一歩だった。


パキッ。


静まり返った屋上に、硬質なプラスチックが粉砕される、あまりにも乾いた、あまりにも無慈悲な音が響き渡った。


「あ」


心臓が跳ね上がる。視線を足元に落とすと、そこには、さっきチーポが消える際に慌てて落としていったのだろう――成金趣味全開の、下品に輝く「金ピカのサングラス」が、俺の靴の下で無惨にひしゃげて転がっていた。


時が、止まった。


吹き抜けていた屋上の風が、ピタリと止む。 遠くの街の喧騒も、空を飛ぶカラスの鳴き声すらも、この世から消え失せたかのような錯覚。

冷や汗が背筋を伝い落ちるのを感じながら、俺は、錆びついた歯車を回すような恐怖と共に、恐る恐る顔を上げた。


そこには、両手を広げ、絶叫のポーズのまま全身を硬直させた「地味な転校生」の姿があった。 彼女は、油の切れたブリキ人形のようにギギギ……と、ゆっくり、ゆっくりと首をこちらへ回してくる。

目が、合った。

重たい前髪と眼鏡の奥で、その瞳が「辰宮才牙」を捉えた。


時が凍りついたような静寂の中、俺の脳内コンピュータは瞬時に数億のパターンをシミュレーションし――そして、たった一つの最適解をはじき出した。


(……無視だ。これしかねえ)


そうだ。俺は何も見ていないし、何も聞いていない。ただ偶然、屋上で昼寝をしていて、チャイムが鳴るから教室に戻るだけの、どこにでもいる素行不良な生徒。足元のサングラス? 知らん、ゴミだろう。

俺は腹を括ると、強引に「日常」へと舵を切った。


スッ、と背筋を伸ばす。猫背気味だった姿勢を正し、使い古されたズボンのポケットに両手を深く突っ込む。表情筋を総動員し、心臓の爆音を無視して、いつもの不機嫌かつ威圧的な「第七地区の番長」としての顔を作り上げる。

そして、彼女と視線を合わせないよう、遠くの鉄塔でも眺めるかのように明後日の方向を見ながら、低くドスの効いた声で短く呟いた。


「……ああ」


たった二文字。 「邪魔したな」とも「よぉ」とも取れる、感情を排した無意味な感嘆詞。


(これでいい。これ以上の言葉はいらない……!)


俺はそのまま、自然な歩調で――しかし内心では音速で駆け抜けていきたい衝動を必死に抑え込みながら――扉の方へと足を向けた。優依(刹那)の横を、まるで風が通り過ぎるかのような自然さで通り抜ける。


(完璧だ……! 震えてねえ、俺の足は一歩も震えてねえぞ!!)


我ながら惚れ惚れするほどのポーカーフェイス。これなら、彼女も「あれ? 今の独り言、聞かれてないのかな? 寝ぼけてたのか?」と疑心暗鬼になり、不名誉な追求を躊躇うはず――。


ガシィッ!!!


「……ん?」


突如、俺の右肩に、巨大な万力で締め上げられたような鋭い衝撃が走った。 いや、違う。これは、人の手だ。

分厚いレンズの眼鏡をかけ、ひ弱な猫を被っていたはずの佐藤優依の手が、俺の制服ごと肩の肉を、ロッククライミングのホールドのようにガッチリと、そして正確に掴んでいた。

びくともしない。 俺もこの街の修羅場を潜り抜け、腕力には絶対の自信がある。並の不良なら、このまま肩を回せば容易く振りほどけるはずだ。だが、この拘束力は明らかに「カタギ」のそれではない。

逃げられない。物理的に、一ミリも動けない。 背後から、地獄の最下層から響いてくるような、それでいて不自然なほど明るく、乾いた声が聞こえた。


「『ああ』、じゃねーんだわ……」


俺は、油の切れたロボットのような動きで、ギギギと首だけを後ろに向けた。


そこには。


眼鏡の奥の瞳をカッと見開き、額に青筋を浮かべながら、この世で最も美しい、そして最も恐ろしい「満面の笑顔」を浮かべた転校生「佐藤優依」――いや、殺意と羞恥心を煮詰めたような、暗黒のオーラを纏った魔法少女・刹那が立っていた。


「……聞いてたよな? 全部」


逃げ場のない問いかけ。 俺の「完璧な演技」は、物理的な暴力と殺意の前に、あっけなく崩れ去った。

俺は震える唇で、正直に答えるしかなかった。


「……ああ」

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