第9話
婚約解消のサロンから、半年余りの月日が流れた。
その間、社交界と帝国の経済は、まさに天変地異のような激動に見舞われていた。
火付け役となったのは、エレノア様が立ち上げた『南方新物流事業』――そして、その傍らで影のように寄り添い、あらゆる実務と根回しを完璧に遂行し続けた専属執事、ジークである。
幻の絹布を用いた純白のドレスと、夜空の海を切り取ったかのような深い青のサファイア。
かつてテラス席で調査した最新トレンドを完璧に具現化したエレノア様の商品は、帝都の貴婦人たちの間で爆発的な大流行を巻き起こした。
公爵家には、連日連夜、目を疑うような莫大な利益と注文書が雪崩れ込んでいた。
そして――。
その事業が軌道に乗り、公爵家の金庫が黄金で溢れかえったある日の朝。
ヴァルハイト公爵家の当主執務室に、私はジークと共に呼び出されていた。
「……エレノア、ジーク。よく来てくれた」
執務机の奥で、父――公爵閣下が重々しく口を開いた。隣には母も座っている。
父の机の上には、南方事業の膨大な決算報告書がうず高く積まれていた。
「エレノア。お前が主導した南方事業の成果は……認めざるを得ん。我が公爵家の歴代のどの事業よりも短期間で、これほど巨大な利益と利権を盤石にした。……見事だ。さすがは我が娘だ」
「ありがとうございます、お父様」
私が完璧な淑女の礼をとると、父は険しい視線を、私の隣に直立するジークへと向けた。
「だが……問題は、この半年間の『実績』だ。……ジーク、お前だな」
「はっ。何なりと」
ジークは寸分の隙もない、彫像のような美しい礼を返した。
父は額を押さえ、まるで巨大な怪物を前にしたかのように、深いため息を吐き出した。
「お前……この半年間、一体裏で何をしていた?」
「執事として、お嬢様の事業を補佐し、我が家の発展に尽力していただけにございます」
「嘘をつけ!!」
父が机をバンッと叩いた。だが、それは怒りというよりは、あまりの規格外さに対する戦慄の響きだった。
「先週、帝室財務尚書から極秘の親書が届いたのだぞ!
『北部穀倉地帯の干ばつ被害を未然に防いだ先物取引の政策提言』、さらには『東方国境守備隊の補給網の抜本的改革案』……。それらを匿名で提出し、帝国の危機を救った謎の天才軍師が、我が公爵家の執事だと名乗り出たそうではないか!」
「たまたま手が空いた時間に、お嬢様のためになる経済動向を分析していた際の副産物にございます」
「副産物で国家の兵站と穀物危機を救うな!!」
父の絶叫が執務室に響き渡る。
私の隣で、ジークは平然と涼しい顔を崩さない。
こいつ、私が新事業の書類仕事をしている合間に、裏でそんな国家規模のチートを仕込んでいたの……!?
「それだけではないぞ……」
今度は母が、扇子の影から引きつった笑みを漏らしながら口を開いた。
「今朝、宮内府から使者が参りましたのよ。……ジーク。皇帝陛下より直々に、『特例準男爵位の叙爵』、ならびに『世襲貴族への取り立ての内諾』が下りましたわ。陛下の仰るには、『これほどの英傑を一介の使用人に留め置くなど帝国の損失。エレノア嬢との婚姻を望むのであれば、余が喜んで後ろ盾となろう』とのことですけれど……?」
「陛下には、南方新事業の利益の一部を帝室直轄領へ還元する協定を結んでいただきましたゆえ。国家にとっても我が公爵家にとっても、極めて合理的な判断を下していただけたかと存じます」
完璧な微笑みを浮かべるジーク。
父はがっくりと肩を落とし、書類の上に突っ伏した。
「……もう何も言えん。お前がエレノアの婿になることに反対しそうな門閥貴族たちも、なぜか先月あたりから次々と『家庭の事情』や『領地監査の不祥事』で失脚したり、お前に全面降伏の手紙を寄越してきている……。外堀どころか、内堀も城壁も、何もかも完璧に埋め立てられておるわ……」
「お嬢様との未来を邪魔する小石は、あらかじめすべて粉砕しておくのが執事の務めでございますので」
「それを世間では『脅迫と根回しの完全犯罪』と呼ぶのだ……!」
父は頭を抱え、しばらく唸っていたが――やがて、深く、長い息を吐き出した。
顔を上げた父の瞳には、諦めと、そして確かな敬意が宿っていた。
「……ジーク。お前の才覚、そして半年間、寝る間も惜しんでエレノアを支え続けたその忠誠……いや、執念の深さは、認めざるを得ん。平民の執事どころか、今や帝都で最も恐れられ、最も将来を嘱望される男だ」
父はスッと背筋を伸ばし、威厳を取り戻してジークを見据えた。
「我が娘、エレノア・ヴァルハイトの夫となることを……公爵家当主として、正式に認めよう」
「……っ」
その瞬間。
半年間、どんな国家機密の交渉でも眉一つ動かさなかったジークの鉄面皮が、微かに揺らいだ。
黒い瞳に熱いものが込み上げ、ジークは深々と、これまでの人生で最も深く、床に額がつくほどの一礼を捧げた。
「……寛大なるご決断、魂の底より感謝申し上げます。閣下、奥様。我が命の最後の一滴が尽きるまで、エレノア様をお守りし、世界で一番幸福にすることを誓いましょう」
その声は、震えていた。
狂気も策謀も消え去った、ただひたすらに純粋な、十年間待ち望んだ誓いの言葉。
母が優しく微笑み、私に視線を向けた。
「おめでとう、エレノア。……あなた、本当に恐ろしいほど優秀な伴侶を射止めたわね」
「……ふふ。お母様、私が選んだ男ですもの。当然ですわ」
私が胸を張って答えると、ジークがゆっくりと顔を上げた。
その表情は、普段の冷徹な仮面などどこにもない――世界中のすべての光を独り占めしたかのような、眩い笑顔だった。




