第10話
朝の柔らかな木漏れ日が、天蓋付きのベッドを優しく照らし出していた。
「……ん……」
心地よい鳥のさえずりと共にゆっくりと目を開けた私は、視界いっぱいに広がった「彫刻のように整った美貌」に、危うく心臓を止めかけた。
「……おはようございます、我が麗しき太陽。今朝も天上の星々の輝きすら霞むほどに美しくあらせられますね」
至近距離。
寝起きの私の額に、極上のシルクのような手袋を外したジークの指先が優しく触れ、続いてその唇が、そっと触れるだけの甘やかなキスを落としていく。
「……じ、ジーク。朝っぱらから近すぎるわ」
私が顔を真っ赤にしてシーツを口元まで引き上げると、ジークはふわりと、心底幸せそうに目を細めた。
「おや、照れておいでですか? ご安心ください。昨晩から今朝にかけて編纂いたしました、お嬢様――いえ、エレノア『妻』様への朝の賛歌集、まだ第一章の序盤でございます。これから朝食の席で、残り四十七章をすべて朗読させていただきますので」
「聞かないわよ! 早く着替えさせて!」
私が枕を投げつけると、ジークはそれを優雅に空中でキャッチし、完璧な動作でベッドサイドへ置いた。
あれから、一年。
皇帝陛下直々の特例叙爵と、両親の正式な承認を経て、私たちは社交界中を揺るがす盛大な婚礼を挙げた。
平民の執事から一躍、帝室直属の準男爵となり、公爵家の共同経営者となったジークは、今や帝都で最も注目される若手貴族の一人である。
……だが、本人の強い希望により、私の「専属執事」としての職務だけは絶対に譲らないと言い張った結果。
昼は共に事業を動かす辣腕の共同経営者、夜は公爵家の若き夫君、そして屋敷の中では相変わらず燕尾服を着て私の身の回りの世話を焼き倒す、という前代未聞の「激重執事兼夫」が完成してしまったのだ。
◆
ダイニングルームの長テーブル。
銀のドームを優雅に開けたジークが、色鮮やかな朝食を私の前に並べていく。
「本日の朝食は、南方の新ルートから昨夜届いたばかりの極上果実のサラダと、滋養強壮に優れた薬膳スープでございます。昨夜、深夜まで帳簿とにらめっこをしておられたあなたのために、疲労回復成分を完璧に計算して調合いたしました」
「……ありがとう。本当に、味も完璧ね」
スプーンでスープを口に運ぶと、じんわりと温かな旨味が胃に染み渡っていく。
私が満足そうに微笑むと、ジークはテーブルの傍らに直立したまま、熱烈な視線で私を見つめ、サッと手帳を取り出した。
「お嬢様がスープを一口召し上がるごとに、細胞の一つ一つが歓喜の声を上げておりますね。その滑らかな喉の動き、至福に緩む琥珀色の瞳……ああ、世界よ、これほどの奇跡を前にして平然と太陽が昇っていられるのが不思議なほどだ……」
「食べづらい!! 黙って立ってなさいってば!!」
「おっと、失礼いたしました。あまりの尊さに、つい魂が声となって漏れ出てしまいました」
澄ました顔で手帳を懐にしまうジーク。
もはや過呼吸を起こすこともなく、堂々と胸を張って激重ポエムを垂れ流してくるあたり、完全にリミッターが外れっぱなしである。
「そういえば、エレノア様。本日午後は、近衛騎士団のアルノーツ副団長夫妻とのお茶会が予定されております」
「ああ、ルーカスとブリジット卿ね」
私はナプキンで口元を拭いながら、懐かしそうに目を細めた。
あの日、サロンを蹴破る勢いでプロポーズしに行ったルーカスは、エレノアの添削の手紙で見事にブリジット卿の心を射止め、半年前に無事にゴールインしていた。
手合わせで鍛え上げた絆(?)は本物だったらしく、今では騎士団きっての「おしどり夫婦」として社交界でも有名だ。
「……ふん。あの男、まだ性懲りもなくあなたに手紙を寄越してくるのが気に入りませんがね」
ジークの口元が、わずかに不機嫌そうに歪んだ。
手袋を嵌めた指先が、ピキッと音を立てる。
「ちょっと、ジーク。ルーカスからの手紙は全部、騎士団の物資調達のビジネス相談じゃないの。まだ嫉妬してるの?」
「嫉妬? 滅相もございません」
ジークは冷徹な鉄面皮に戻り、平然と言い放った。
「ただ、あの男がエレノア様の貴重な視界と脳内リソースを掠め取っているという事実が、万死に値すると考えているだけでございます。……本日の茶会でも、少しでも馴れ馴れしい態度を見せれば、彼が輸入を心待ちにしている南方特産の筋力増強プロテインの関税を十倍に跳ね上げてやる手筈を整えておりますので」
「やめなさい! 職権濫用で幼なじみの筋肉をいじめるんじゃないの!」
私が思わず吹き出すと、ジークは満足そうに口元の端を吊り上げた。
かつては、あの男の一挙手一投足に一人で血の涙を流し、壮大な勘違いでドタバタと空回りしていた男が。
今では堂々と私の隣に立ち、堂々と嫉妬し、堂々と私を愛してくれている。
◆
朝食を終え、執務室へ向かう廊下。
窓の外には、抜けるような青空と、庭園の緑が広がっていた。
「……ねえ、ジーク」
「何でございましょう、エレノア様」
前を歩いていた私が立ち止まって振り返ると、ジークもまたピタリと足を止め、優雅に小首を傾げた。
「私ね、たまに思い出すのよ。あの王宮の中庭で、あなたが木陰に隠れてた日のこと」
ジークの眉が、ピクッと跳ねた。
あの「盛大にやらかした過去」を蒸し返されると、いまだに完璧執事のプライドがチクチク痛むらしい。
「……あの時の私の見当違いな愚行につきましては、すでに生涯をかけて償う所存でございますゆえ、どうかご容赦を……」
「ふふ、違うわよ。からかってるんじゃないわ」
私はクスリと笑い、一歩歩み寄って、ジークの燕尾服の裾をそっと引っ張った。
至近距離で見上げる、私の大好きな、どこまでも深く真っ直ぐな黒い瞳。
「あの時、私……ルーカスに言ったのよ。『ジークがいれば、私の人生は特別になる』って」
「…………」
「本当に、その通りになったわ。……退屈なんて一秒もなくて、毎日が信じられないくらい騒がしくて、愛されてて……最高に特別な人生よ」
私が照れ隠しに小さく笑うと――。
ジークの瞳が、ふっと揺れた。
そして、これ以上ないほど愛おしそうに、慈しむように、私の両肩をそっと抱き寄せた。
「……お嬢様」
耳元に落ちてくる、震えるほど優しい声。
「私の命も、魂も、心臓の最後の一打ちに至るまで……すべて、最初からあなたのものです。
この命が続く限り……いえ、たとえ肉体が滅びようとも、私の魂は永遠にあなたの足元に跪き、あなたを愛し続けることでしょう」
「……うん。知ってる」
私はジークの広い背中に腕を回し、その温かな体温をぎゅっと抱きしめ返した。
激重で、過保護で、たまに空回りするけれど。
世界で一番シゴデキで、世界で一番私を一途に愛してくれる、私の最愛の執事。
「さあ、ジーク。今日も仕事が山積みよ! 私たちの特別な人生を、もっと面白くしに行きましょう!」
「――御意。我が最愛の主、エレノア様」
完璧な礼とともに顔を上げた執事の瞳には、かつてないほど眩い、幸福な光が満ち溢れていた。
(了)




