第8話
「……ッ」
音もなく、ジークの長い手足が床に向かって折れ曲がり、文字通りその場に崩れ落ちた。
白目を剥いているわけではない。だが、顔面は蒼白と紅潮を激しく行き来し、呼吸は荒く、完全に足腰の力が抜けてしまっている。
「ちょっと、ジーク!? しっかりしなさいってば!!」
私は慌てて駆け寄り、床にへたり込んだジークの脇に手を入れて引っ張り上げた。
自分よりも頭一つ分以上大きな体を、火事場の馬鹿力でサロンの革張りソファーへと引きずり上げる。
「くっ……重い……! さすが無駄に鍛えてるだけあるわね……!」
ソファーにぐったりと倒れ込んだジークの胸元に手を当てると、心臓が壊れた時計のように激しく乱打していた。
私はサイドテーブルの引き出しから、領地からの茶葉が入っていた茶色い紙袋を引っ張り出し、ジークの口元に無理やり押し当てた。
「ほら、これ口に当てて! スー、ハーよ! ゆっくり息を吸って、吐いて!」
「……ス、スー……ハー……。……スー……ハー……」
サロンに、紙袋のガサガサという情けない音が響き渡る。
前髪は乱れ、きっちり結ばれていたネクタイは少し緩み、普段の「冷徹無比・鉄面皮の完璧執事」の面影など微塵も残っていない。
「……落ち着いた?」
私が腰に手を当てて溜息をつくと、ジークはビクッと肩を跳ね上げ、紙袋をゆっくりと口元から離した。
「は、はい……お見苦しいところを……申し訳ございません、お嬢様……。血中酸素濃度と……己の矮小な脳内情報処理能力が、ようやく平時の基準値へと戻りつつあります……」
「基準値って……。あなたね、本当に今まで一人で何を考えてたのよ」
私が呆れ半分でソファーの前に立つと、ジークはスッと長椅子から滑り落ち、絨毯の上に片膝をついて私の足元に跪いた。
その仕草はいつも通りの美しい執事の礼……のはずだったが、見上げてくるその瞳に宿る熱量が、先ほどまでとは根本的に違っていた。
何かが、外れている。
十年間、頑丈な氷の檻の中に閉じ込められていた「猛獣」の鍵が、音を立てて粉々に砕け散ったかのような――底知れぬ狂気と、狂おしいまでの情熱。
「……お嬢様」
低く、甘く、胸の奥を直接揺さぶるような美声。
ジークは私の右手を両手でそっと包み込むと、まるで触れるだけで崩れてしまう至宝を扱うかのように、その甲に熱い唇を落とした。
「っ……!? じ、ジーク!?」
思わず引っ込めようとした手を、逃がさないとばかりに、しかし決して痛くはない絶妙な力加減でぎゅっと握られる。
「これまで……私は己の身分を弁え、あなたへの想いを永遠に胸の奥深くに埋葬する覚悟で仕えてまいりました。しかし……お嬢様自らその扉をこじ開け、私を望んでくださったのです。……もう、引き返せませんよ?」
「な、何言ってるのよ、今さら引き返すわけないでしょ……!」
顔がカッと熱くなる。
だが、ジークの口元に浮かんだのは、いつもの能面のような微笑ではなく――息を呑むほどに妖艶で、艶やかな笑みだった。
「ええ、決して引き返させません。……お嬢様。先ほど仰いましたね。『情熱的な言葉をかけてもらえたら、どれだけ幸せか』と」
「えっ……あ、あれは、ちょっとした独り言というか……」
「独り言などと流させはいたしません」
ジークは私の指先に、今度は一つずつ、指の節に口づけを落としていく。
ちくりとするような熱と痺れが、指先から腕を通って心臓へと駆け上がっていく。
「今日この瞬間より、あなたを目覚めさせる朝の挨拶から、眠りに落ちる夜の帳まで……私が紡ぐすべての言葉を、あなたへの愛の賛歌といたしましょう。
麗しき我が主、我が至高の光。あなたの切れ長の涼やかな瞳は天上の星よりも気高く、その怜悧な知性はどんな宝剣よりも眩しい。あなたの爪の先から髪の毛一本に至るまで、この世のあらゆる美があなたという奇跡のために跪いている……」
「ちょ、ちょっと待って! ストップ! タイム!!」
私はたまらず、空いている左手でジークの口を物理的に塞いだ。
耳から煙が出そうなほど恥ずかしい。心臓が破裂しそうだ。
「な、何なのよそれ!? 急にキャラが崩壊しすぎでしょ!!」
「崩壊などしておりません。これが私の『平常運転』にございます」
私の掌の下から、ジークが平然とくぐもった声で答える。
その黒い瞳は、爛々と怪しい光を放っていた。
「むしろ、これまでの十年間、毎分毎秒この衝動を殺して鉄面皮を維持していた私の精神力を褒めていただきたいほどです。……お嬢様が他の男と結ばれる悪夢から解放された今、私に自重する理由など何一つございません」
ジークは私の手をそっと退けると、満足そうに立ち上がった。
そして、サッと懐から手帳と羽ペンを取り出し、猛烈なスピードで何かを書き殴り始めた。
「……何してるの?」
「お嬢様を世界一幸福にするための、向こう五十年の行動計画表の再構築です。
まずは、お嬢様の肌に触れる寝具および衣服の素材をすべて最高級の特注品へと刷新。お食事の栄養バランスを完璧に管理し、お嬢様が少しでも疲労を感じられた瞬間に即座に極上のマッサージを施せるよう、帝立医療院の免許を取得してまいります。
また、お嬢様の視界に入るあらゆる不快な害虫――有象無象の求婚者や無能な貴族どもを、私の手で笑顔のまま社会的に消滅させるための法的手続きも進めねばなりません」
「重い!! 行動がすべて激重なのよ!!」
私が叫ぶと、ジークはふっと優しげに目を細めた。
「重い? とんでもない。お嬢様が私に注いでくださった、海よりも深い愛に比べれば、これでもまだ綿毛のように軽い戯れに過ぎません」
「だから! 私の愛を勝手に宇宙規模に神格化するのやめなさいってば!!」
私が額を押さえてよろめくと、ジークは音もなく背後に回り込み、すっと私の腰を支えた。
冷たい燕尾服の感触と、その奥から伝わってくる驚くほど熱い体温。
耳元に、ジークの吐息が直接かかった。
「お嬢様。……もう、我慢しなくてよろしいのですよ」
その声は、悪魔の囁きのように甘く、そして泣きたくなるほど優しかった。
「次期当主として完璧であらねばならぬ重圧も、周囲の期待に応えねばならぬ孤独も……すべて、このジークに預けてください。
あなたが歩む道にある小石は、私が粉々に砕きます。あなたが手に入れたい未来は、私がすべて奪い取って捧げましょう。
……あなたはただ、私の腕の中で、笑っていてくださればいいのです」
「…………っ」
ずるい。
あまりにも過保護で、狂気じみていて、重苦しい執着。
けれど――六歳のあの日、雪の温室で「逃げてもいい」と言ってくれた時の温もりそのものの言葉に、私の目頭がツンと熱くなった。
「……ばかね。私が笑ってるだけじゃ、退屈で死んじゃうわよ」
私はジークの胸元に寄りかかったまま、小さく息を吐いた。
「それにね、ジーク。……喜ぶのはまだ早いわ」
「と、仰いますと?」
「ルーカスとの婚約は無事に白紙に戻せたけれど……問題は次よ。あのお父様とお母様に、『私の結婚相手は、専属執事のジークです』なんて言ってみなさいな。公爵家の体面を重んじる両親が、平民の執事との結婚なんて簡単に許してくれるはずがないでしょう?」
そう。先ほどはあくまで「ルーカスとの経済協定」を突きつけて婚約破棄を成立させただけなのだ。
ここから一介の執事を夫として認めさせるには、貴族社会の常識という、あまりにも分厚い壁が立ちはだかっている。
「時間をかけて、私の権力を固めてから押し切るしかないと思ってたんだけど……」
私が眉を寄せて呟くと、背後で私を抱きしめるジークの腕に、ふっと力が籠もった。
「くっ……ふふ……」
低く、愉悦に満ちた笑い声が耳元をくすぐる。
ジークの口元には、かつてないほど不敵で、冷徹な笑みが浮かんでいた。
「お嬢様との婚姻を阻む壁など、この世に一瞬たりとも存在してはならないのです。……私に、半年ほどお時間をいただけますか?」
「え……? 半年?」
「はい。お嬢様が立ち上げられる新事業を成功させ、公爵家に未曾有の富をもたらすとともに……公爵閣下がぐうの音も出ぬほどの莫大な功績と、私自身の爵位の獲得、そして帝室への根回し。すべて、この私の手で完璧に整えて差し上げましょう」
「半年で爵位と帝室の根回し……!? ちょっと待って、何する気なの!?」
「お嬢様を私の妻として迎え入れるためです。……さあ、今宵より、二人で帝都の経済と未来を掌握するための策を練りましょう」




