第7話
※エレノア視点
「……私と、結婚してくれないかしら?」
長年仕えてくれた最愛の執事へ、清水の舞台から飛び降りる覚悟で告げた逆プロポーズ。
耳まで真っ赤にしながら、ぎゅっと掴んだ彼の胸元から手を離し、「驚いた?」と悪戯に成功した子供のような顔でジークを見上げた――まさにその瞬間だった。
「……ジーク? ちょっと、ジーク!?」
サロンの床に、音もなく崩れ落ちたジークの体を、私は慌てて抱き起こした。
白目を剥いているわけではない。ただ、完璧に整えられていた鉄面皮が粘土細工のように脱力し、唇をわなわなと震わせながら「あ……あぅ……」と意味不明な音を漏らしている。
完全に魂が抜けている。
呼吸が浅い。胸元に手を当てると、心臓が早鐘どころか壊れた時計のように激しく乱打していた。
「ジーク、息をして! 吸って、吐いて! スー、ハーよ!」
私が両手でジークの頬をペチペチと叩くと、彼の焦点の合わない黒い瞳が、ゆらりと私を捉えた。
「お……おじょ……う……さま……? い、いま……なんとおっしゃい……ました……? け……こん……? 俺……と……?」
「そうよ! 結婚してって言ったの! 嫌なら嫌って言いなさいよ、こっちだって死ぬほど恥ずかしいんだから!」
カッと顔に熱が集まる。
いくら周囲の人間を完全にやり込めるシゴデキ令嬢と恐れられていようと、十年間ずっと焦がれ続けた初恋の相手に逆プロポーズをするのは、心臓が口から飛び出るほど怖かったのだ。
ジークはガタガタと全身を震わせながら、這うようにして私の前に両膝をついた。
「め、滅相もございません……! 嫌などと、天地が逆転し神が滅びようとも口が裂けても言えません……! ですが……し、しかし……なぜ、俺なのですか……!? お嬢様は……あの男……ルーカス・アルノーツを、心から愛しておられたのでは……!?」
「はあ!? なんでそうなるのよ!?」
私は思わず素っ頓狂な声を上げた。
ルーカス? あの筋肉バカの幼なじみを、私が?
「だって……! お嬢様はあの日、婚約が決まった夜に、夜な夜な机にかじりついて楽しそうに計画を練っておられたではありませんか……! あの男のために、睡眠時間を削ってまで……!」
「……は?」
計画……?
私の記憶の引き出しが高速で開かれる。
「……あ、あの分厚い『南部流通網改革案および関税特例法案』のこと!? あれはルーカスの実家の領地と騎士団の利権を分析して、どうやって両親を納得させて合法的に婚約破棄するかを計算してたのよ! ルーカスと結婚したくないから、睡眠時間を削ってブッ潰すための計画書を書いてたの! そりゃあ完璧な逃げ道が見つかったらニヤニヤもするわよ!」
「な……っ!? で、では……あの王宮の夜会の中庭で、月明かりの下、二人きりで誓い合っていた言葉は……!?」
ジークは血を吐くような形相で食い下がってきた。
「言葉って何よ! ルーカスが『実はずっと前から本当に愛している人がいる』って、ブリジット卿への想いを白状してきたんじゃない! 相手が私なら話が通じると思って相談してきたのよ!」
「し、しかし……! お嬢様もあの時、『幼い頃からずっと憧れていた』『一度は諦めたけれど今度こそ絶対に叶えたい、私の人生は特別になる』と頬を染めておられたではありませんか……!」
「――っ!!」
今度こそ、私の顔が沸騰した。
耳の奥まで真っ赤になるのが自分でもわかる。
「そ、それは……! 『幼い頃からずっと……ジークに憧れていた』って言ったのよ! あの六歳の冬、温室で泣いてた私を助けてくれたあなたに、ずっと憧れてたの! 一度は身分差で諦めたけど、ルーカスも好きな人がいるって言うなら、協力して婚約破棄して、今度こそあなたとの未来を叶えたいって……! ジークがいれば私の人生は特別になるって、ルーカスに宣言したのよ!!」
「………………………………」
ジークの動きが、完全に止まった。
口をぽかんと開けたまま、石像のように固まっている。
「……風の音で、肝心の主語が全部かき消されてたのね……?」
私の呆れた呟きに、ジークはピクッと眉を跳ね上げた。
だが、彼の脳内の疑問符はまだまだ尽きないようだった。震える指先で自らの胸を押さえながら、今度は恐ろしいものを見るような目で私を見つめる。
「で……では、あの兵站倉庫の密室は……!? ルーカスがブリジット卿と汗だくになって出てきたあの日……! お嬢様はサロンで項垂れるルーカスを、聖母のような笑顔で許されたではありませんか……! 『一度の過ちくらい誰にでもある、私の愛は揺るがない』と……!」
「言ってないわよそんなセリフ!!」
私は思わず頭を抱えた。
こいつの読唇術は一体どうなっているのか。
「あいつ、憧れのブリジット卿と密室に閉じ込められてパニックになって、何をトチ狂ったか『手合わせ願います!』って木剣でガチ稽古を挑んだのよ! だから汗だくだったの! サロンで落ち込んでたのも、『あんな絶好のチャンスだったのに、俺はバカだ、パニクって手合わせ申し込むとか意味わかんない! もっと上手くやれたはずなのに!』って頭抱えて愚痴ってきたから、『まあ、あなたにしては頑張ったじゃない、次はもっと素直になりなさいよ』って励ましてただけよ! 誰が浮気を許す愛の殉教者よ!」
「て……手合わせ……!? な、中から聞こえた『いきなりあんな激しく攻めてこられて』というのは……」
「不意打ちで木剣を振り回してきたって意味に決まってるでしょ!!」
「ぐはっ……!?」
ジークが胸を押さえて呻いた。
己の壮絶な勘違いの破壊力に、精神的ダメージをダイレクトに食らっているらしい。
「ま、待ってください……! では、あのテラス席で、周囲の貴婦人たちに囲まれながらドレスや宝石の相談をして、二人で甘やかに語り合っていたのは……!?」
「あれはビジネスよ!!」
私は深呼吸をして、噛んで含めるように説明した。
「隣の席の貴婦人たちが話してたでしょ! 南方の幻の絹布の話! あれを独占輸入してウェディングドレス用として社交界に売り捌けば、莫大な利権になるわ。それに合わせる主力商品として、南方の青いサファイアが一番利益率が高いから、『どれがいいと思う?』『絶対に深い青よ』って採算の打ち合わせをしてたの! 親たちに見つからないように、恋人のふりをしてカモフラージュしながらね!」
「り、利益率……!? 婚礼の装飾品ではなく……商品開発の市場調査……!?」
「当たり前でしょ! 誰があいつと結婚式挙げるのよ!」
ジークの顔色が、青から白、そしてドス黒い赤へと目まぐるしく変化していく。
額からは尋常ではない量の脂汗が吹き出していた。
「じゃあ……じゃあ、あのラブレターは……!? 騎士団の控室から回収された、あのルーカスの恋文……! お嬢様は大広間で青ざめて部屋に閉じこもり、背中を丸めて小刻みに震えながら、涙を流しておられたではないか……! 私は……お嬢様があまりのショックに泣いていると……!」
「あれは……っ」
思い出しただけで、吹き出しそうになる。
私は必死に口元を押さえたが、堪えきれずにプルプルと肩を震わせた。
「あれは……っ、ぶふっ……! あんまりにもポエムが下手くそすぎて……! 『我が胸を貫く銀の切っ先』とか、大広間で読んだ瞬間にツボに入っちゃって……! 吹き出しそうになるのを必死に堪えて部屋に逃げ帰って、ベッドの上で腹抱えて大爆笑してたのよ! 泣いてるわけないでしょ、笑いすぎて息ができなかっただけよ!!」
「ば、爆笑……!? 絶望の涙ではなく……!?」
「そうよ! あんなの笑うに決まってるじゃない! だから翌日ガゼボに呼び出して、あまりに可哀想だから『ここを直せば相手の心を射止められるわよ』って赤ペン先生してあげたの! 戦友として全力で応援してあげたのよ!」
「……………………」
ジークは、もはや言葉を失っていた。
口を半開きにしたまま、虚空を見つめている。
「……あ、でも」
私は恥ずかしさに耐えかねて、そっぽを向いた。
「手紙を直しながら……ぽろっと本音が出ちゃったのは、本当よ」
「……え?」
「私も……あんな風に情熱的な言葉をかけてもらえたら、どれだけ幸せかしらって……。だって、ジークはずっと無口で、鉄面皮で、私のことなんてただの『仕えるべきお嬢様』としか見てないと思ってたから。……あなたが、あんな風に誰かに熱烈な愛を囁く姿なんて、想像もつかなかったし……羨ましかったのよ」
ジークが、息を呑んだ。
その瞳が、信じられないほどの歓喜と、過去の自分への壮絶な羞恥と、そして底知れぬ狂気の熱を帯びてギラリと見開かれた。
「お……お嬢様……。俺は……俺は……」
「何よ」
「情熱的な言葉など……! 俺の脳内には、あなたへの愛を綴った詩編がすでに三千巻ほど編纂されております……! 地の果てまで、世界が滅ぶその瞬間まで、毎分毎秒あなたを賛美し続けることなど造作もございません……ッ!」
「ひっ……!? な、なにそれ重い……!」
あまりの眼力と気迫に、思わず後退る私。
だが、ジークは止まらなかった。
「あああ……! なんということだ……! お嬢様は最初から、俺だけを見てくださっていたというのに……! 俺は……俺はあの男に嫉妬して、周囲に貴婦人を呼び寄せ、密室に閉じ込め、手紙を突きつけ……すべて、お嬢様が俺と結ばれるための準備を、全力でアシストしてしまっていたというのか……ッ!?」
「え? ちょっと待って、何したのあなた?」
聞き捨てならない単語が聞こえた気がしたが、ジークはそれどころではなかった。
両手で頭を抱え、床に額を擦り付ける勢いで悶絶し始めたのだ。
「うわああああああああっっ!! 恥ずかしい……! 死ぬほど恥ずかしい……ッ!! なにが『都合のいい手配師』だ! なにが『愛の殉教者』だ! 俺はただの、壮大に見当違いなピエロだったではないかァァァァァァッ!!」
「ジ、ジーク!? 落ち着いて!」
「ハッ……ハッ……ヒュー……ッ! お嬢様が……俺を……愛して……息が……酸素が……ッ!」
過呼吸である。
かつてないほどの幸福感と、過去数ヶ月の己の奇行への壮絶な羞恥心により、完璧無欠の鉄面皮執事の呼吸器系は完全にキャパシティをオーバーしていた。
「ジーク! だから息をしてってば! 吸って、吐いて! 誰か、誰か袋を持ってきてー!!」
サロンに響き渡る私の悲鳴。
こうして、長きにわたる壮絶なすれ違いコントは、執事の盛大な自爆と過呼吸によって、鮮やかに幕を閉じたのだった。




