第6話
決戦の日が訪れた。
ヴァルハイト公爵邸の格式ある大サロン。
豪奢なシャンデリアの下、長テーブルの片側には我が公爵閣下と奥様、そしてもう片側にはアルノーツ伯爵夫妻が威厳を漂わせて着席していた。両家の当主が揃い踏みする、年に一度の定期会合である。
エレノア様の背後に控える私の燕尾服の内ポケットには、この数日間、不眠不休で作成した「極秘告発書類」が収められていた。
アルノーツ伯爵家の商流における脱税疑惑、騎士団の物資横流しの証拠、そしてルーカス・アルノーツの不貞の記録――。
これを公爵閣下の前に突きつければ、伯爵家は一瞬で破滅し、婚約など木っ端微塵に吹き飛ぶ。
(お嬢様……どうかお許しください)
私は冷徹な鉄面皮の裏で、血の涙を流しながら決意を固めていた。
お嬢様は愛人の存在すら認め、泣きながらあの男を愛し続けようとされている。
だが、その健気で歪んだ献身は、今日ここで私が終わらせる。お嬢様がどれほど傷つき、私を恨もうとも構わない。あの男を社会的に抹殺し、二度とお嬢様に近寄れぬよう地獄の底へ叩き落としてみせる……!
私は内ポケットの書類に指をかけ、引き抜くタイミングを虎視眈々と狙っていた。
その時である。
「お父様、お母様。ならびに伯爵閣下、奥様」
凛とした澄んだ声が、静まり返ったサロンに響き渡った。
エレノア様が、サッと音を立てて優雅に立ち上がったのだ。
その隣では、ルーカスもまた真剣な面持ちで姿勢を正している。
「本日、両家のお歴々がお揃いのこの良き日に、私とルーカス様から――重大なご提案とご報告がございます」
サロンの空気がピリッと張り詰めた。
公爵閣下が厳しい眼差しで片眉を上げ、伯爵が身を乗り出す。
(くっ……! まさか、正式な挙式の日程発表か!? させん、そんなことは絶対にさせんぞ……ッ!)
私が懐の書類を一気に引き抜こうとした、まさにその瞬間だった。
エレノア様が机の上に、トン、と置いたのは――分厚く、見事な金箔押しの羊皮紙の束だった。
「これまでの数ヶ月間、私とルーカス様が極秘裏に進めてまいりました、『南方新規物流網における両家の経済的独立協定書』……ならびに、『双方合意に基づく円満婚約破棄書』にございます」
「…………は?」
公爵閣下の口から、間抜けな声が漏れた。
伯爵夫妻もまた、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で固まっている。
そして――。
私の手は、内ポケットの中で完全に凍りついた。
(……け、経済的独立……? え、えんまん……こんやく……はき……?)
脳の処理が、完全に追いつかない。
エレノア様は淀みない美声で、涼やかな笑みを浮かべながら資料をめくっていった。
「元々、私とルーカス様の婚約は、当家の南方法改正に伴う物流利権と、武門であるアルノーツ家の騎士団警備ルートを結束させるための政略結婚でした。……ですが、私たちが独自に調査・構築したこの新ルートと関税特例法案を通すことで、両家は婚姻関係を結ばずとも、従来の三倍以上の利益を永続的に確保することが可能となりました」
公爵閣下とアルノーツ伯爵は、眉根を寄せてその分厚い書類を引ったくるように手に取った。
室内には、紙をめくる衣擦れの音だけが響く。
二人の当主の表情は、最初の訝しげなものから、瞬く間に驚愕と戦慄へと塗り替えられていった。
「……な、なんだこの数字は……! 南部諸侯の関税ルートの裏を突き、これほど完全に利益を独占する流通網を……お前たちだけで設計したというのか!?」
「騎士団の警備網の配置転換も完璧だ……。王宮への根回しと法案の事前審査まで、すでに文官たちを完全に丸め込んでいるだと……!?」
公爵閣下と伯爵は顔を見合わせ、信じられないものを見る目で息を呑んだ。
そこにあるのは、エレノア様が夜な夜な執務室で練り上げていた、あの緻密極まりない実務計算と、ルーカスが騎士団の立場から詰めた安全保障のデータ。
感情論など一寸たりとも差し挟む余地のない、完璧な論理の城壁だった。
公爵閣下は書類を机に置き、重々しく息を吐き出した。
「……ぐうの音も出んな。婚姻という曖昧な絆を結ぶよりも、この協定を結ぶ方が、我が公爵家にとってもアルノーツ家にとっても遥かに実利が大きい」
「ああ……認めるほかないな。これほどの絵図を引かれては、親の面目などあったものではない」
伯爵も苦笑交じりに頷き、サインの欄へと視線を落とした。
「実利はすでに完璧に担保されております」
エレノア様はサバサバとした調子で言い放ち、隣のルーカスに向かってニヤリと笑いかけた。
「よって、私たち二人が政略結婚に縛られる理由は、これっぽっちも存在いたしません。……ね、ルーカス?」
「ああ! 僕たちはお互いに尊敬し合う『最高の戦友』だけど、男女としての情愛は一切ない! これによって両家の体面も利益も完璧に守られた! ……俺たちの『二人だけの秘密計画』、大成功だね、エレノア!」
「ええ、大成功よ!」
パチンッ、と二人は両家の親たちの目の前で、爽快な音を立ててハイタッチを交わした。
(………………は????)
私の脳内で、未知のエラーログが毎秒数万件の速度で噴出し始めた。
えんまんこんやくはき?
二人だけの秘密計画?
最高の戦友……?
「父上、母上! そういうわけですので、僕は僕の生涯をかけて愛する人――近衛騎士団のブリジット卿に、今から正式に求婚してまいります!! 添削してもらった手紙の成果、見せてくるよエレノア!!」
「ええ、行ってらっしゃい! 砕けてきたら慰めてあげるわ!」
「砕けてたまるかーっ!!」
ルーカスはサロンの扉を勢いよく蹴破らんばかりの勢いで飛び出し、愛する女騎士の元へと疾風のように去っていった。
「……全く、あの子は昔から猪突猛進なんだから」と苦笑しながら伯爵夫妻が立ち上がり、後を追うようにサロンを後にする。
「さて、我々もこの膨大な経済協定の実務引き継ぎを急がねばならんな。王宮と財務尚書へ連絡を入れるぞ」
「ええ、そうですわね。……ふふ、あの子たちには一本取られましたわ」
公爵夫妻もまた、山のような書類を抱えて足早に部屋を出ていった。
バタン、と重厚なサロンの扉が静かに閉まり――広い室内に、完全な静寂が訪れる。
残されたのは、直立不動のまま、魂が口から半分抜けかけている私と、エレノア様。二人きり。
(あ、あの男は……? お嬢様を……捨てた……? いや、違う……最初から愛し合っていなかった……? え、じゃあ……あの月夜の告白は……? 密室で乱れていたのは……? 他の女への手紙を添削して……愛人の存在を許す聖母の愛は……???)
私の頭の中で、これまで組み立ててきた数千時間分の壮大な悲恋ポエムと妄想ピタゴラスイッチが、音を立てて瓦解していく。
崩壊どころではない。宇宙がビッグバンを起こして消滅するレベルの大混乱である。
「……ふぅ。これで邪魔なタスクは全部片付いたわ」
エレノア様は小さく息を吐き、肩の力を抜いた。
そして――扉の鍵が閉まっていることを横目で確認すると、くるりと身を翻し、放心状態で立ち尽くす私の目の前へと歩み寄ってきたのだ。
「……お、お嬢様……?」
私の喉から、蚊の鳴くような声が漏れる。
すると、エレノア様は――先ほどまでの冷徹なシゴデキ令嬢の顔をかなぐり捨て、みるみるうちに耳の先、首筋、そして頬全体を林檎のように真っ赤に染め上げていった。
視線を激しく泳がせ、組んだ指先をもじもじと弄び、上目遣いで私を見上げてくる。
その瞳には、かつて見たこともないほど潤んだ、本物の熱情が宿っていた。
「……ジーク」
「は、はい……」
「私ね、ずっと……我慢してきたの。公爵家の跡取りとして、完璧でいなきゃいけないって。でも……もう、あの面倒な政略結婚も、義務も、全部論理的にブッ潰したわ」
エレノア様はギュッと拳を握りしめ、意を決したように、震える手で私の燕尾服の胸元をキュッと掴んだ。
至近距離。
甘い香りと、触れ合う布越しに伝わってくる、お嬢様の激しい鼓動。
「……私、あなたがいいの」
消え入りそうな、けれど、二人きりのサロンに真っ直ぐ響く声だった。
「身分も年齢も違うし……迷惑かもしれないけれど。私が幼い頃からずっと憧れて、心に決めていたのは……ジーク、あなただけよ。……私と、結婚してくれないかしら?」
「……………………」
ドゴォォォォォォォォォンッ!!!!
私の脳内全銀河が、未曾有の大爆発を起こした。
南方新規事業
(※政略結婚を合法的に潰すための武器)
二人だけの秘密
(※俺と結婚するための婚約破棄計画)
彼がいれば私の人生は特別になる
(※俺のこと)
私も情熱的な言葉をかけてもらえたら
(※俺に言ってほしかった)
(ぜ……全部……俺のためだったのかァァァァァァァァァッッッ!!??!?!?)
完璧超人執事ジークの思考回路は、限界突破の過負荷により、文字通り完全沈黙したのだった。




