第5話
手酷い敗北だった。
二人の逢瀬を妨害しようと送り込んだ社交界の貴婦人たちすら、お嬢様は自らの華麗なる婚礼衣装の糧にしてしまった。
だが――私にはまだ、最後の、そして最大の切り札が残されていた。
(手に入れたぞ……これこそが、あの不実な男の急所……!)
執務室の暗がりの中、私は机の上に置かれた一枚の羊皮紙を見つめ、唇の端をドス黒く吊り上げた。
王立騎士団の控室から、我が卓越した隠密技術によって極秘裏に回収してきた――ルーカスが認めた、書状の下書きである。
そこに並んでいたのは、目を覆いたくなるほど熱烈で、気恥ずかしくなるような愛の賛歌だった。
『我が胸を貫く銀の切っ先、気高きあなたの眼差しに射抜かれし日より――』
『鋼の鎧の下に秘められた、誰よりも温かなその温もりを、この腕に抱きしめたい――』
誰に向けて書かれたものかなど、一目瞭然。近衛騎士団の副隊長、銀髪の女騎士ブリジット卿に宛てた、魂の叫びたるガチ恋ポエムである。
(婚約者たるお嬢様がいながら、他の女へこのような爛れた恋文を書き連ねているとは……万死に値する愚行!)
密室での過ちすら「聖母の慈悲」で許してしまわれたお嬢様だ。
だが、文字として残されたこの生々しい恋情の証拠を突きつけられても、なおあの男を愛し続けられるだろうか?
いや、断じて否だ。
衆人環視の公の場で突きつけてやれば、体面を重んじる貴族社会において、あの男の不実は決定的な亀裂となるはずだ!
◆
午後の柔らかな光が差し込む、公爵邸の大広間。
そこには茶会の準備を進める使用人たちや、打ち合わせに訪れていた領地貴族の姿が数多くあった。
多くの目があるその中央で、私は優雅に紅茶を嗜まれていたエレノア様の前に歩み寄り、無表情のまま銀のトレイを差し出した。
「お嬢様。……少々、お耳に入れておかねばならぬ書類が届いておりまして」
「あら、何かしら? 手紙?」
エレノア様は不思議そうに眉を寄せ、羊皮紙を手に取った。
私は静かに一歩下がり、息を殺してお嬢様の反応を待った。
(さあ、お読みください……! そして大勢の面前で、あの不実な男の化けの皮を剥ぎ、その穢らわしい裏切りに怒り狂うのです……!)
羊皮紙に視線を走らせたエレノア様は、最初の数行を読んだ瞬間――ピタリと動きを止めた。
鋭く美しい切れ長の瞳が限界まで見開かれ、その白い首筋までがサッと朱に染まっていく。
(……効いている! あまりのショックに、怒りで全身が沸騰しておられるのだ……!)
エレノア様は手紙を握りしめたまま、ギリッと唇を噛み締め、小刻みに口元を引き結んだ。
怒号を放つか。それともトレイを叩き割るか。
だが――エレノア様は何も言わなかった。
ただ一度、周囲の使用人や貴族たちをキッと冷たく見回すと、信じられないほどの早足で、無言のまま大広間を後にしたのだ。
「……お嬢様!?」
私は慌ててその背中を追った。
公の場で醜態を晒すまいと、自尊心だけでその場を立ち去られたのだ。なんという痛ましさか!
◆
私室へと飛び込んだエレノア様は、扉を閉めるなり、長椅子へと崩れ落ちるように座り込んだ。
背中を丸め、膝の上に手紙を広げ、じっと見つめている。
私は息を殺し、扉の隙間からその痛ましい背中を見つめた。
すると――。
エレノア様の華奢な肩が、フルフルと小刻みに震え始めたのだ。
手紙を握る指先が激しく震え、顔を覆うように俯いている。
声は漏れてこない。だが、その背中の震えは激しさを増し、時折、堪えきれない嗚咽を押し殺すかのように「……っ、ぅ……っ」と小さく息が漏れていた。
(あ……あぁ……っ!)
私の胸が、万力で締め上げられたように軋んだ。
泣いておられる。
誰もいない部屋で、たった一人、声を殺して泣いておられるのだ。
あのシゴデキで、誰よりも気丈で、決して弱音を吐かないあのお嬢様が……裏切りを記した紙切れ一枚を前にして、あんなにも小さく縮こまり、肩を震わせて涙を堪えておられる……!
(許せん……! 許せんぞ、ルーカス……! お嬢様にこれほどの屈辱と絶望を味わわせるとは……ッ!!)
私は自分の至らなさに血の涙を流した。
こんな残酷な現実を突きつけてしまった己の愚かさを呪いながらも、あの男への殺意が天を衝く勢いで燃え盛るのを感じていた。
◆
だが、翌日の午後。
事態は私の想像とはまったく異なる方向へと転がり始めた。
エレノア様は、なんと自らルーカスを中庭のガゼボ(東屋)へと呼び出したのだ。
昨日の悲痛な涙の痕跡など微塵も感じさせない、完璧に整えられた冷徹な美貌。
私はガゼボから少し離れた木立の影に身を潜め、二人の様子を監視した。
(お嬢様……自らあの男に引導を渡しに来られたのだな。今度こそ、あの男を完膚なきまでに叩きのめしてくださるはずだ……!)
「エレノア、急に呼び出してどうしたんだい?」
やってきたルーカスが、不思議そうに小首を傾げる。
エレノア様は無言のまま、テーブルの上にあの羊皮紙をトンと滑らせた。
それを見た瞬間、ルーカスの表情が凍りついた。
顔色が白から赤、そして土気色へと目まぐるしく変化し、椅子から転がり落ちそうなほど狼狽して頭を抱えた。
「ば……っ!? な、なんでそれを君が持ってるんだよ……ッ!? ちょ、ちょっと待って、これは違うんだ、エレノア……!!」
必死に手を振り、冷汗を滝のように流して弁解しようとするルーカス。
だが、エレノア様は怒るどころか――ふっと、試すような、悪魔的とも言える艶やかな笑みをその唇に浮かべたのだ。
(……な、なんだ? その冷笑は……?)
エレノア様は机に肘をつき、指先で手紙をトントンと叩きながら、信じられないほど穏やかな、そしてどこか哀愁を帯びた声で語りかけた。
「……ルーカス。あなたがこんなにも情熱的な言葉を紡げる方だなんて、私、知らなかったわ」
「え……?」
ルーカスが呆然と目を見張る。
エレノア様は切れ長の瞳を細め、手紙の文面を見つめながら、切なそうに小さく息を吐いた。
「あまりに熱烈で……読んでいて、胸が苦しくなるほどよ」
(――っ!?)
木陰で、私の心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
胸が苦しくなるほど……?
他の女への情熱を目の当たりにして、お嬢様は今、あの男の前で己の痛みを吐露しておられるのか……!?
しかし、エレノア様はそこで責め立てることはしなかった。
悪戯っぽく、慈愛に満ちた笑みを浮かべて、こう続けたのだ。
「でもそうね……ふふ。ここを少し直せば、『お相手の心』をもっと確実に射止められると思うわよ?」
「……えっ? 直すって……添削してくれるのかい!?」
「ええ。こんな重苦しい比喩、今の時代流行らないわ。もっと素直に、彼女の気高さを褒めるべきよ。……貸しなさい、私が直してあげるわ」
エレノア様は楽しげに羽ペンを走らせ始めた。
ルーカスは感極まったように「エレノア、君ってやつは本当に……ありがとう!」と涙ぐみながら頭を下げている。
そして――ペンを走らせる最中、エレノア様が誰に聞かせるでもなく、ぽつりと、風に乗るような小さな声で呟いたのを、私の研ぎ澄まされた聴覚は確かに拾い上げてしまった。
「……私も、こんな風に……情熱的な言葉をかけてもらえたら、どれだけ幸せな気持ちになるのかしらね」
(――ッッ!!!!)
頭の中で、巨大な雷鳴が轟いた。
全身の血液が、一瞬にして凍りついたかのような衝撃。
――私も、こんな風に情熱的な言葉をかけてもらえたら、どれだけ幸せな気持ちになるのかしら。
お嬢様の、あの寂しげで、儚い呟き。
それは……まるで。
(あ、あの男から……向けられたことのない熱烈な愛の言葉を……お嬢様はずっと、焦がれておられたというのか……!?)
他の女へ向けられた、熱烈なラブレター。
それを読んだお嬢様の胸が苦しくなったのは、嫉妬や怒りなどではなく――『なぜ私には、こんな言葉を囁いてくれないの』という、あまりにも悲痛な恋心ゆえだったのか!
そして……あろうことか、あの男の心の奥底にいる「愛人」の存在すらも受け入れ、男の恋路をアシストしてやることで、少しでもあの男の側に寄り添い、いつか自分にも愛の言葉を向けてくれる日を夢見ているというのか……!?
(そこまで……そこまでして、あの男の隣にいたいというのか……ッ!?)
ガタガタと全身が震え、奥歯が砕け散りそうなほど軋んだ。
視界が真っ赤に染まり、目頭からドス黒い血の涙が零れ落ちる。
愛人の存在すら認め、男の恋文を自ら添削してやり、自らは飢えた小鳥のように「いつか情熱的な言葉をかけてもらえたら」と健気に祈るお嬢様。
そのあまりにも歪で、あまりにも深すぎる献身。
(もはや……聖母を通り越して、業深き愛の殉教者……ッ!!)
尊い。尊すぎて、胸が張り裂けそうだ。
だがそれ以上に――私の心を支配したのは、底知れぬ狂気と、ドロ沼のようなドス黒い感情の渦だった。
(なぜだ……! なぜあんなクズ男のために、お嬢様がそこまで惨めに心を擦り減らさねばならないのだ……ッ!?)
情熱的な言葉?
そんなもの、私ならば毎分毎秒、生涯をかけてお嬢様の足元に捧げ続けられる!
地の果てまで響き渡るほどの愛の賛歌を、私の命の炎が燃え尽きるまで紡ぎ続けてみせるというのに……!
「……許せない」
木立の影の中、私の両の手袋は、握りしめた爪によってボロボロに引き裂かれていた。
「ルーカス・アルノーツ……! お嬢様のあの哀しくも美しい純情を踏み躙り、愛人の手紙を添削させるなど……もはや万死どころか、魂の消滅すら生温い……ッ!!」
お嬢様がどれほど健気に愛人を認めようとも、この私が絶対に許さない。
これ以上、あのお方に悲しい顔などさせてたまるものか。
「……終わりにして差し上げます、お嬢様」
私の双眸に宿ったのは、もはや理性の光ではなかった。
聖母たる主を、泥沼の悲恋から力ずくで救い出すための――狂気の決意。
(次の社交の場……両家が一堂に会するサロンの席で、私はアルノーツ伯爵家のすべてを裏から叩き潰す。あの男を社会的に抹殺し、二度とお嬢様の前に姿を現せぬようにしてやる……!)
完璧超人執事ジークの激重な愛と憎悪は、ついに最終臨界点を突破した。




