第3話
男という生き物は、極限状態に追い込まれれば本能を剥き出しにする脆弱な生き物だ。
特に、憧れの女性と二人きりで狭い密室に閉じ込められればどうなるか。
熱気と焦燥に当てられ、理性のタガなど音を立てて外れ、内に秘めた下劣な情欲に身を任せるに決まっているのだ。
「ふふ……これで舞台は整いました」
王立騎士団の演習場に隣接する、古い石造りの兵站倉庫。
冷え切った薄暗い廊下の物陰で、私は黒革の手袋を嵌め直しながら、静かに唇の端を吊り上げた。
ターゲットはルーカス・アルノーツ。
あの中庭の夜以来、私はこの男の一挙手一投足を監視し続けていたが、やはり私の目に狂いはなかった。
ルーカスは訓練の合間、近衛騎士団の副隊長であるブリジット卿――輝く銀髪をなびかせ、鋼の鎧を着こなす年上の敏腕女騎士――の姿を、これ見よがしに熱っぽい瞳で見つめているのだ。
我が主であるエレノア様は、誰もが見惚れる怜悧で線の細い、楚々とした至高の美女である。
対して、あのブリジット卿はどうか。騎士として日々鍛え上げられた、しなやかな筋肉と豊満な体躯。健康的で大柄な、いわばエレノア様とは完全に正反対の肉体派の美女だ。
(貴様……! お嬢様のあの繊細で儚げな、神の彫刻の如き至高の美に不満があるとでもいうのか……!? 生涯をかけて崇め奉るべき唯一神を目の前にしながら、肉欲に眩んであのような豊満な肉体に惹かれるとは……万死に値する愚行!)
許しがたい。だが、好機だ。
手筈は完璧だった。
倉庫の備品確認という名目でブリジット卿を奥の保管庫へ誘き出し、ルーカスには「ブリジット卿から至急の呼び出しだ」と偽のメモを渡す。
二人が中に入った瞬間、外から重厚な鉄の閂を下ろし、魔法錠で物理的かつ魔術的に完全封鎖した。
(密室で二人きり。誰も来ない薄暗い倉庫の中……過ちが起きてしまえ)
魔が差したルーカスが理性を失い、女騎士と一線を越えてしまえばいい。
そうすれば、あの男の不実は動かぬ事実となり、お嬢様はあんな男を完全に軽蔑して婚約を破棄するはずだ。
私はその場を一旦立ち去り、時間を潰した。
男と女の理性が崩壊するには、一時間もあれば十分すぎる。
◆
一時間後。
私は足音を忍ばせ、再び倉庫の前へと戻ってきた。
静まり返った廊下。扉に耳を澄ませると、微かに衣擦れの音と、乱れた荒い息遣いが聞こえてくる。
……終わったのか?
私は冷酷な笑みを浮かべ、音を立てずに魔法錠を解除し、閂を跳ね上げた。
「……失礼。どなたか入っておられますか」
わざとらしく声をかけながら、重厚な鉄扉をギィと押し開ける。
その瞬間――室内のむせ返るような熱気と共に、私の視界に飛び込んできた光景と会話に、私は息を呑んだ。
「はぁ……はぁっ……す、すみません……っ。俺、どうしても我慢できなくて、つい力が入ってしまって……」
「ふぅ……息を整えてください、アルノーツ卿。腰の使い方が甘すぎです。……全く、いきなりあんな激しく攻めてこられるなんて驚きました。」
そこに広がっていたのは。
衣服を激しく乱し、額や首筋にびっしりと汗を光らせ、肩で荒い息を繰り返すルーカスと――。
甲冑の上帯を緩め、乱れた銀髪の隙間から、ほんのりと赤らんだ顔で額の汗を拭うブリジット卿の姿だった。
ルーカスの胸元は大きくはだけ、汗で濡れたシャツが肌に張り付いている。
互いに息を切らし、どこか照れくさそうに間近で見つめ合っていた。
(な……ッ!?)
私の背筋を、強烈な戦慄が駆け抜けた。
二人きりの密室。乱れた衣服。充満する熱気と汗の匂い。
『我慢できなくて』『甘い腰づかい』『いきなりあんな激しく攻められた』――!?
(や……やりやがった……ッ!!)
本当に過ちを犯したのだ。
理性を保てず、こんな埃っぽい倉庫の中で、獣のように本能を曝け出して交わったのだ!
「おや、扉が開いたのか」
扉の音に気づいたルーカスは、乱れた胸元を手の甲で拭いながら、こちらを振り返った。
その顔には焦りや動揺の色など微塵もない。それどころか、ひと仕事を終えて汗を流した男の、清々しい笑顔すら浮かべていた。
「ジークじゃないか。助かったよ、急に鍵が開かなくなって参ってたんだ。ブリジット卿、出ましょうか」
「ええ。お世話になりました、執事殿」
二人は乱れた身なりを整えながら、何食わぬ顔で私の横を通り過ぎていく。
(こ、この男……!)
私の奥歯が激しく軋んだ。
婚約者の専属執事に見られたというのに、狼狽えるどころか平然と挨拶を返して立ち去るだと……!?
なんと図太く、救いようのない破廉恥な男だ。お嬢様を裏切っておきながら、罪悪感すら抱いていないというのか!
「……許さん。絶対に許さんぞ、ルーカス……!」
手袋の下の拳を白くなるほど強く握りしめ、私は怒りに震えた。
だが、これで証拠は揃った。
この不貞の事実を前にして、あのお嬢様が黙っているはずがない。
あの男の破滅は、もう目前に迫っていた。
◆
そして数日後。
公爵邸のサンルームで、その時は訪れた。
私はサンルームから十分に離れた廊下の角に立ち、柱の影から二人の様子を窺っていた。
気配を悟られないよう距離を取っているため、声は一切届かない。だが、二人の表情と仕草は手に取るように見えた。
テーブルを挟んで、エレノア様とルーカスが向かい合っている。
ルーカスは見るからに憔悴しきっていた。
頭を抱え、両手で顔を覆い、今にも泣き出しそうなほど情けなく項垂れている。
時折、身振り手振りを交えながら、エレノア様に向かって必死に何かを弁解するように頭を下げていた。
(ふ……ふふふ。見ろ、あの無様な姿を……!)
私の口元が吊り上がる。
倉庫では平然を装っていたものの、やはり罪悪感と露見の恐怖に耐えきれなくなったのだ。
お嬢様にすべてを白状し、情けなく許しを請うているに違いない。
『取り返しのつかない過ちを犯してしまった』
『魔が差したんだ、どうか許してくれ』
そう言って、額を擦り付けるように謝罪しているのだろう。
さあ、お嬢様。
あの不実な男を、ゴミを見るような冷たい目で蔑んでおやりください。
怒りに震え、その美しい唇から、手切れ金を叩きつけるような痛烈な別れの言葉を――!
私は固唾を呑んで、エレノア様の顔を見つめた。
しかし。
エレノア様は――怒っていなかった。
それどころか、呆れたように小さく肩をすくめると、ふっと口元を綻ばせたのだ。
テーブルの上に置かれたルーカスの肩にポンと優しく手を置き、まるで幼子をあやすかのように、慈愛に満ちた笑顔を浮かべている。
声は聞こえない。だが、私にはその唇の動きが、はっきりと読めてしまった。
『一度の過ちくらい、誰にでもあるわ』
『ふふ、私の愛は……その程度で揺らいだりしないわよ』
エレノア様は優しく微笑みながら、項垂れるルーカスを温かく見つめ、励ましているように見えた。
ルーカスは顔を上げ、救われたような表情でエレノア様の手を握りしめ、エレノア様もまた、聖母のような慈愛の笑顔で力強く頷いている。
(…………は?)
私の視界が、ぐにゃりと歪んだ。
怒っていない……?
軽蔑も、涙も、怒号もない……?
自分の婚約者が他の女と密室で如何わしい過ちを犯したと泣きついてきているというのに……お嬢様は、あんなにも聖母のような笑みを浮かべて、男を許している……!?
(う……嘘だろ……?)
ドクン、と心臓が嫌な拍動を刻む。
全身の血が逆流するような衝撃が、私の脳天を直撃した。
(お嬢様は……あの男の浮気すら……許すというのか……!?)
他の女を抱いた男だぞ。
婚約者であるお嬢様を裏切り、欲望に負けて汚らわしい過ちを犯したクズ男だぞ。
それすらも……「一度の過ちくらい誰にでもある」と、広大な海のような寛大な心で包み込み、許して受け入れたというのか!?
(なんという……なんということだ……!)
私の膝が、ガクガクと震え出した。
奥歯が砕けそうなほど強く噛み締められ、目頭から熱い血の涙が滲み出る。
(そこまで……そこまであの男を愛しておられるというのか……ッ!?)
浮気すら許すほどの、特大の愛。
裏切りすらも飲み込んでしまう、底知れぬ献身と慈愛。
お嬢様にとって、ルーカスという存在は――己の尊厳を傷つけられてなお手放したくないほど、かけがえのない唯一無二の光だというのか。
(もはや……聖母……! いや、聖母ですらここまでの慈悲は持ち合わせておらぬ……ッ!!)
尊い。あまりにも尊く、神々しい。
だが、その神々しさが、私の胸を鋭いナイフでズタズタに切り刻んでいく。
お嬢様。なぜそこまでして、あんな男に尽くされるのですか。
あんな下劣で不実な男のために、あなたがそこまで心を砕き、傷つきながらも微笑まねばならない理由がどこにあるのですか……!
「……許せない」
廊下の暗闇の中、私の喉から絞り出されたのは、怨嗟と狂気に満ちた呻き声だった。
「ルーカス・アルノーツ……! お嬢様のあの海より深い愛に甘え、踏み躙り、その慈悲に縋り付いて生き延びようとは……断じて許さん……ッ!」
お嬢様があの男を愛し、許してしまうというのなら。
お嬢様自身の手で引き裂くことができないというのなら――。
「この私が、力ずくでお嬢様の目を覚まさせて差し上げるまで……!」
執事ジークの激重な忠誠心は、完全に見当違いの方向へとフルスロットルで加速していた。




