第2話
王宮主催の夜会は、色とりどりのドレスと虚飾に満ちた会話で溢れかえっていた。
公爵令嬢として社交界に咲くエレノア様は、息を呑むほどに美しかった。
深い夜空を思わせる濃紺のシルクドレスに身を包み、鋭くも気品ある切れ長の瞳でフロアを見据えるその立ち姿は、まるで戦場に立つ孤高の女王のようだった。
有象無象の貴族たちが卑屈な笑みを浮かべて擦り寄ろうとするのを、完璧かつ隙のない挨拶で秒殺していく。まさにシゴデキの極み。我が主の美しさと有能さに、私の内心の狂信メーターは天井を突き破りそうになっていた。
だが――私の心の平穏は、すぐに粉々に打ち砕かれることとなる。
「エレノア、少し空気を吸いにいかないかい?」
声をかけてきたのは、白い正装に身を包んだルーカス・アルノーツだった。
騎士団仕込みの均整の取れた体躯に、柔らかな金髪と甘いマスク。周囲から見れば「美男美女の完璧なお似合いカップル」なのだろう。だが、私にとってはただの害虫である。
「ええ、そうね。少し息が詰まっていたところよ」
エレノア様は小さく頷き、ルーカスと共に夜風が吹き抜ける中庭へと歩き出した。
私は専属執事として、気配を完全に殺し、数歩後ろから影のように追従する。
月明かりに照らされた王宮の中庭。ゴウ、と激しい水音を立てて噴水が吹き上がり、夜風が木々の葉を大きくざわめかせている。
二人きりで語らうには、あまりにもロマンチックが過ぎる舞台設定だ。
ルーカスは噴水の縁で足を止めると、周囲を慎重に窺った。
もちろん、木々の影に同化している私の気配など、どれほど鍛えられた騎士の目であっても捉えられるはずがない。
「……エレノア」
ルーカスが一段と声を落とした。
その表情は、先ほどまでの社交的な貴公子然としたものとはまるで違う。緊張で強張り、今にも心臓が口から飛び出しそうなほど切羽詰まっていた。
噴水の激しい水音と、吹き荒れる突風が二人の声をかき乱す。
だが、研ぎ澄まされた私の聴覚は、風に乗って届く男の言葉を必死に拾い上げた。
「……ずっと……言えなかったんだ」
(な……っ!?)
物陰で、私の全身の筋肉が瞬時に硬直した。
言えなかったこと……?
この月明かりの下、二人きりの庭園で、男が女に対して絞り出すように告げる言葉など、この世に一つしかないではないか。
ルーカスは耳まで真っ赤に染め上げ、真剣そのものの瞳でエレノア様の顔を見つめている。
その両手は、緊張のあまり微かに震えていた。
「……婚約が決まって……『――』……やっと、自分の本当の気持ちに気づけた」
風の音にかき消され、途中の言葉は聞き取れなかった。
だが、続く言葉はあまりにも鮮明に私の耳朶を打った。
「……実はずっと前から……本当に、愛しているんだ」
風が吹き抜け、木々の葉がざわざわと激しく擦れ合う。
ルーカスは感極まったように、震える声で続けた。
「……相手が……君でよかった」
(――っ!?)
頭の天辺から、冷水を浴びせられたような衝撃が突き抜けた。
本当に、愛している。
相手が、君でよかった。
疑いようもない。この期に及んで何の言い逃れができようか。
ルーカスは、幼なじみという気恥ずかしい関係から一歩踏み出し、エレノア様に対して魂の底からの愛を告白しているのだ。
(くっ……! なんという破廉恥で直球な甘言を……!)
私の奥歯が軋んだ。
そして、恐るべきはエレノア様の反応だった。
エレノア様は驚いたように目を丸くしたあと――ふっと、肩の力を抜いた。
いつもの怜悧な表情が嘘のように溶け去り、その白い頬が、月明かりの下でほんのりと朱に染まったのだ。
「……そう。あなたがそう言ってくれて、本当によかったわ」
その声は、驚くほど柔らかかった。
他人に決して見せない、無防備で、温かな響き。
「ええ。私もずっと……『――』……同じ気持ちだったのよ。……それならね、ルーカス。私、ずっと昔から叶えたかった『夢』があるの。あなた、協力してくれる?」
夢……?
エレノア様は夜空を見上げ、どこか慈しむように、そして愛しそうに言葉を紡いだ。
「幼い頃からずっと……『――』……憧れていたの。一度は諦めたけれど、あなたがそう言ってくれるなら、今度こそ絶対に叶えたいわ。……『――』……私の人生は特別になるもの」
(――っ!?)
幼い頃から、ずっと憧れていた。
一度は諦めかけたけれど、あなたがそう言ってくれるなら、今度こそ絶対に叶えたい。
あいつがいれば、私の人生は特別になるもの――!?
(幼い頃からずっと……俺以外の男に憧れていた、だと……!? いや、それだけではない……!)
頭の中で、恐ろしい警報がけたたましく鳴り響く。
公爵家の重責に縛られ、己の意志を押し殺して生きてきたお嬢様だ。形式ばった政略結婚しか許されないと、少女らしい甘やかな憧れや理想の誓いなど、とうの昔に諦めていたのだろう。
だが、幼なじみであるルーカスからの熱烈な告白を受け、お嬢様の胸の奥に眠っていた乙女の夢が目覚めてしまったのだ。
(二人の愛を証明するような……特別な結婚式、あるいは二人の新生活のためのスペシャルサプライズ……! 人生を特別にするほどの壮大な夢を、あんな男と一緒に叶えようとしているのか……!?)
「……それ、僕にとっても最高の提案だよ」
ルーカスは瞳を輝かせ、安堵と喜びが滲む穏やかな笑みを浮かべた。
「君のその夢、僕にとっても都合が良すぎるくらいだ。……ああ、必ず二人で一緒に叶えよう」
「ふふ、頼もしいわね」
エレノア様は満足そうに微笑み、どこか悪戯っぽく声を潜めた。
「でも、その時が来るまで慎重に動かなくっちゃね。……みんな、驚いちゃうかもしれないけれど」
「はは、確かにそうだね。周囲は間違いなく腰を抜かすよ。分かった、その日を迎えるまで、これは『二人だけの秘密』にしておこう」
「ええ。二人の未来のために、絶対に成功させましょう」
――私もずっと同じ気持ち。
――二人だけの秘密。
――二人の未来
月明かりの下、二人は穏やかに微笑み合い、誰にも立ち入れない絶対の同盟――愛の契りを結び合っていた。
(あ……あぁ……っ)
視界が歪んだ。
胸が引き裂かれるどころではない。心臓を素手で抉り出され、足蹴にされているような激痛が全身を襲う。
お嬢様のあの蕩けるような笑顔。
あんな顔、私には一度たりとも見せてくださったことがない。
いつも冷静で、効率を求め、張り詰めた糸のように生きておられたお嬢様が……あの男の前でだけ、あんなにも年相応の、特別な人生を夢見る乙女の顔を見せている。
もう、見ていられなかった。
これ以上ここに留まれば、私は嫉妬と絶望のあまり正気を失い、あの男の首をその場で刎ね飛ばしてしまうかもしれない。お嬢様の大切な『愛の誓い』を、私の血生臭い狂気で穢すわけにはいかなかった。
私は音もなく身を翻し、中庭の闇へと逃げ出した。
◆
夜会が終わり、公爵邸へと戻る深夜の馬車の中。
御者台の横に直立しながら、私は夜風に吹かれていた。
冷たい風をいくら浴びても、胸の奥で渦巻くドス黒い炎は鎮まるどころか、ますます勢いを増して燃え盛っていた。
(お嬢様は……あの男と結ばれ、特別な人生を歩むことを、心から望んでおられる……)
『一度は諦めたけれど、今度こそ絶対に叶えたいわ』
『私の人生は特別になるもの』
『二人の未来のために、絶対に成功させましょう』
お嬢様のあの澄んだ声が、呪いのように耳にこびりついて離れない。
ならば、身を引くべきなのか?
執事として、お嬢様の幸福を陰ながら祈り、指をくわえて二人の婚礼を見守るべきなのか?
「……否、断じて否だ」
私の口から、低く呪詛のような声が漏れた。
闇の中、手袋を嵌めた両手がギリギリと音を立てて握りしめられる。
あんな男に、お嬢様の生涯を預けられるものか。
今日の夜会でもそうだ。ルーカスはお嬢様に愛を語り、二人で叶えようなどと抜かしておきながら、私の目は誤魔化せない。
フロアですれ違った際、あの男は――近衛騎士団の女騎士、確かブリジット卿だったか――あの凛々しい女騎士の姿を、妙に熱っぽい視線で追っていたではないか。
(そうだ……あの男は不実だ。お嬢様という至高の婚約者を得ながら、他の女にも色目を奪われるような下劣な男だ)
あんな不完全な男が、お嬢様の幼い頃からの憧れを背負い続けられるはずがない。
いつか必ずボロを出し、お嬢様を裏切り、深く傷つけるに決まっている。
その時になってお嬢様が泣く姿など、私は絶対に見たくない。
「……ならば、こちらから舞台を整えて差し上げよう」
唇の端が、三日月の如く吊り上がった。
ルーカスが女騎士に未練や興味を抱いているというのなら、その火種を私が徹底的に焚き付けてやる。
あの男の浮気心を裏からアシストし、決定的な『裏切りの証拠』をお嬢様の目の前に突きつけてやるのだ。
お嬢様は絶望するだろう。
『信じていたのに』と、血の涙を流してあの男を軽蔑し、婚約を破棄するはずだ。
その時――。
深く傷つき、誰も信じられなくなったお嬢様の前に、跪くのは私だ。
『お嬢様、私は決してあなたを裏切りません』
『この命も、魂も、すべてあなたのものです』
そう言って、絶望の淵にいるお嬢様を抱きしめ、私の腕の中に閉じ込めてしまえばいい。
たとえそれが、傷心を利用した卑劣な略奪であろうとも構わない。お嬢様が永遠に私のものになるのなら、私は喜んで地獄の業火に焼かれよう。
「ふふ……待ってろよ、ルーカス。お前がその薄汚い本性を晒す日を、私が完璧にプロデュースしてあげよう……」
深夜の公爵邸。
愛する主への狂気的な激重忠誠心と、壮大な見当違いの妄執を胸に、執事ジークの暗躍が静かに、そして本格的に幕を開けたのだった。




