第1話
本日より3日間で全10話投稿予定です。
世界が灰色に染まり、生きる意味のすべてを失ったのは、私が十六歳の冬のことだった。
病によって相次いで両親を亡くし、家名は断絶。後ろ盾を失った若造の行く末など、路傍の小石と変わらない。かつて父と懇意にしていたという名門ヴァルハイト公爵家の温情により、私は見習い使用人として辛うじて拾われた。だが、当時の私の胸中にあったのは安堵ではなく、底知れぬ虚無と冷徹な絶望だけだった。
なぜ自分は生きているのか。なぜ息をしているのか。
生き永らえること自体が呪いのように感じられ、主の命じる雑務を機械のようにこなす日々。
そんな凍てついた私の世界を、鮮やかに、暴力的なまでの輝きで塗り替えてしまったのが――当時六歳だった、公爵家の令嬢エレノア様であった。
あの日、冷たい雪が舞い散る薄暗い温室の隅で、小さな影が蹲っていた。
公爵家の厳格な教育方針のもと、幼くして「完璧な次期当主」たることを義務付けられていた彼女は、誰にも見つからない場所で、たった一人、声を殺して肩を震わせて泣いていたのだ。
その小さな背中を見た瞬間、なぜか足が止まった。
感情などとうに捨て去ったはずの私が、無意識に声をかけていた。
「……お嬢様。このような冷える場所におられては、お風邪を召されます」
普段の私なら絶対に立ち入らない領域だった。使用人の分際で、公爵令嬢の個人的な弱音に関わるなど言語道断。
怒られるか、冷たく追い払われるか。そう覚悟した私に向けられたのは、涙で濡れた大きな瞳と、張り詰めた糸が切れたような幼子の弱音だった。
「……わたし、完璧になんて、なれないわ。お父様もお母様も、間違えちゃダメだって言うけれど……怖いもの。逃げ出したいもの……っ」
その小さな掌は、凍えるように冷たかった。
重責に押し潰されそうな幼い令嬢の姿が、どうしようもなく脆く、美しく見えた。
私は無言のまま外套を脱ぎ、彼女の小さな肩に掛けた。そして、これまでの人生で一度も口にしたことのない、愚直で不器用な言葉を紡いだ。
「逃げても、よろしいのですよ。私が……お嬢様をどこへでもお連れいたしますから」
慰めにもならない、ただの戯言だった。
だが、その言葉を聞いた瞬間、彼女はぽろぽろと零していた涙を手甲で乱雑に拭い、鼻をすすりながら――ぐっと私の顔を見上げて、こう言ったのだ。
「……ばかね。あなたが逃がしてくれたって、あなたの立場がなくなっちゃうじゃない。わたくしが泣いてたら、あなたが困るでしょ? ……よし、もう泣かない!慰めてくれたお礼に、 わたくしが全部完璧に片付けて、誰も文句言えないくらい偉くなって、あなたにうんと美味しいお菓子を食べさせてあげるわ!」
雷に打たれたような衝撃だった。
絶望の淵にいた私を救ったのは、慰められる側であるはずの、わずか六歳の少女の強がりだったのだ。
他人のために涙を拭い、泥臭く立ち上がろうとする気高い魂。
(――ああ、神よ)
私はその場で、魂を悪魔に売り渡すかのように誓った。
この方を、私の生涯のすべてを賭けてお守りしよう。
彼女が歩む道にある小石はすべて粉微塵にし、彼女を脅かす害虫は一匹残らず地獄へ叩き落とす。お嬢様が笑って過ごせる平和な未来のためならば、この身がどれほど汚れようと構わない。
それは敬愛などという生温かいものではない。
救済の誓いであり、狂信であり――十歳も年下の幼子に捧げてしまった、決して報われることのない、身の程知らずの『一目惚れ』だった。
◆
それから十年の月日が流れた。
私は血のにじむような努力の末、若くしてエレノア様の専属執事の座を勝ち取った。
表情を完璧に殺し、いかなる無茶振りにも涼しい顔で対応する「完璧無欠の鉄面皮執事」。それが屋敷の者たちが私につけた評価だ。
だが、私の胸の内はいつだって激重なマグマが煮えたぎっていた。
朝、お嬢様のために紅茶を淹れるだけで幸福のあまり心臓が千切れそうになり、お嬢様が不埒な貴族の男に不躾な視線を向けられた夜には、その男の家系図と弱点リストを密かに作成して枕元に忍ばせる毎日。
お嬢様は美しく、そしてあまりにも有能に育たれた。
その鋭く涼やかな切れ長の瞳、理知的な美貌、そして無駄を一切省いたサバサバとした立ち振る舞い。周囲からは「近寄りがたい」「まるで冷酷な悪役令嬢のようだ」などと心無い陰口を叩かれることもあったが、私にとっては愚民の戯言に過ぎない。
お嬢様はただ、誰よりも真面目で、誰よりも効率を愛し、幼少期からのたゆまぬ超努力によって凡百の有象無象を論理的に論破してしまうだけの、至高にして完璧な主なのだ。
もっとも――私のような一介の執事が、彼女の隣に立つことなど許されるはずもない。
十歳の年齢差。平民と大貴族という絶望的な身分差。
私は己のドス黒い独占欲を仮面の裏に押し込め、「忠実な影」として生涯を終える覚悟を決めていた。
そう――あの日が訪れるまでは。
「エレノア、お前の婚約者が正式に決まった。アルノーツ伯爵家の嫡男、ルーカス殿だ」
公爵閣下のその冷徹な宣告が執務室に響いた時、私の世界は再び粉々に砕け散った。
ルーカス・アルノーツ。
お嬢様の幼なじみであり、騎士団でも頭角を現している見目麗しい青年。軽薄に見えて家柄も実力も申し分ない、社交界でも人気の男だ。
(……ルーカス、だと……?)
私の脳内で、即座にルーカスを秘密裏に事故死させるルートが三十二通りほど高速演算された。馬車の車輪を外すか、訓練用の木剣に致死性の毒を塗るか、それとも階段から――。
しかし、私の黒い思考は、目の前にいたお嬢様の反応によって完全に凍りついた。
「まあ……! お父様、本当ですの? ルーカスと……!」
お嬢様は両手を胸の前で組み、パッと顔を輝かせたのだ。
その頬はうっすらと朱に染まり、瞳は喜びに満ち溢れているように見えた。
「嬉しいですわ! 幼い頃から気心の知れたあの方となら、きっと……素晴らしい関係を築けます!」
――心臓が、握りつぶされたかと思った。
お嬢様が、笑っている。
他人の前では滅多に見せない、あの眩いばかりの笑みを、他の男の名を聞いて浮かべている。
(ああ……そうか。そうだったのか……)
私は歯を食いしばり、口内に広がる鉄の味に耐えた。
諦めていたはずだった。だが、お嬢様が『あの男』を心から愛しているのだという現実を突きつけられた瞬間、私の胸を焦がしたのは、身を引き裂かれるような絶望と嫉妬だった。
お嬢様は、ルーカスを愛しておられる。
私の入る隙など、最初から一寸たりとも存在しなかったのだ。
◆
それからの日々、お嬢様の執務室での様子は明らかに熱を帯びていた。
深夜。静まり返った屋敷の執務室にお夜食のハーブティーを運ぶと、お嬢様は机の上に山のように積み上げられた分厚い羊皮紙の束を前に、かつてない集中力で羽ペンを走らせていた。
難解な関税法改正案、南部諸侯の流通網データ、領地間の特産品移動記録――。
一般の貴族令嬢であれば数行読んだだけで頭痛を起こしそうな、泥臭く複雑極まりない実務資料の山だ。
カツ、カツ、とペンの先で羊皮紙を軽く叩きながら、お嬢様は書類の数字を鋭い目で見つめている。
そして――ふっと、その口元に艶やかな、獲物を狙う肉食獣のような笑みが浮かんだ。
「……ふふっ」
低く、満足げに漏れたその声。
普段の怜悧な表情からは考えられないほど生き生きとしていて、心底楽しそうにニヤリと唇の端を吊り上げている。
(……な、なんだ……?)
私は盆を持つ指先に思わず力が入り、銀のトレイをへこませそうになった。
視線を落とすと、広げられた資料にはアルノーツ伯爵領――すなわち、婚約者であるルーカスの領地周辺の交易ルートが、びっしりと赤インクで囲まれていた。
(ば、馬鹿な……っ!?)
私の脳内で、恐るべきピースが音を立てて噛み合ってしまった。
(ま、まさか……あんな男のために……!?)
アルノーツ伯爵家は武家の気風が強く、領地経営や流通の近代化には遅れをとっていると聞く。
お嬢様は……まだ正式な婚姻の儀すら交わしていないというのに、あの男の領地を助けるため、睡眠時間すら削って難解な実務資料を読み込み、経営のバックアップをしようとしているのか!?
あんな不敵な笑みを浮かべるほどに……あの男の役に立つ未来を夢見て、胸を高鳴らせているというのか……!?
「ジーク? どうしたの、突っ立って。お茶、冷めちゃうじゃない」
不意にお嬢様が顔を上げ、細い眉をひそめた。
「……申し訳ございません。お嬢様が、そのように熱心に机に向かわれている姿を拝見し……少々、見惚れてしまいました」
「変なジーク。ただの書類仕事よ」
お嬢様は呆れたように小さく肩をすくめると、カップを受け取って口をつけた。
その視線は、すぐにまた机の上の書類へと吸い寄せられる。
「……完璧に仕上げなきゃいけないの。これは、絶対に失敗できないから」
呟いたその横顔は、恐ろしいほど真剣で、そして美しかった。
失敗できない。絶対に成功させたい。
そこまでして、あの男の隣に立ちたいのか。あの男の完璧な妻として、支えてやりたいというのか。
(お嬢様……。俺以外の男のために、そこまで懸命になられるのですか……)
胸の奥が、焼け爛れるように熱い。
部屋を辞し、暗い廊下に出た瞬間、私の仮面は音を立てて剥がれ落ちた。
壁に手をつき、荒い息を吐き出す。痛い。狂おしいほどに胸が痛い。
愛している。
狂おしいほどに。
だが、お嬢様が命を削るようにしてあの男に尽くそうとしているのなら、私はそれを止めることなどできない。お嬢様のその純真無垢で一途な献身を、私のような薄汚い男が汚していいはずがない。
……だが。
万が一。万が一にもだ。
あの男が、お嬢様のこの身を削るような一途な愛を裏切るようなことがあれば?
少しでもお嬢様を悲しませるような不実を働いたとしたら?
「……そうだ。もしあの男に、別の女の影でもあれば……」
私の口元から、ドス黒い、底知れぬ笑みが漏れ出た。
男など皆、隙があれば浮気をする愚かな生き物だ。ルーカスとて例外であるはずがない。
もしあいつが他の女に現を抜かし、自ら破滅の道を歩むというのなら――。
お嬢様は深く傷つかれ、絶望するだろう。
その時、絶望の淵に沈むお嬢様を優しく抱きしめ、涙を拭い、永遠に私の腕の中に囲い込むことこそが、執事たる私の崇高な使命ではないだろうか?
「お嬢様が、俺以外の男を選ばれるというのなら――私は陰から、お二人の幸せをプロデュースいたしましょう」
まずは、あの男の身辺調査だ。
尻尾を出せ、ルーカス。貴様が少しでも不実な動きを見せたその瞬間、私は全力でお前の破滅を……お嬢様からの『正当なる略奪』をアシストしてやる。
暗闇の中、私の瞳は怪しく紅く濁っていた。
お嬢様への激重な愛と、壮大な勘違いの歯車が、いま狂気と共に回り始めたのだった




