8話
闇に落ちた廊下の中、突如として深紅の流星が煌めき、闇に紛れていた狼の心臓を焼き貫いた。心臓を喪った狼は、自身の脇を駆け抜ける白金色の閃光に気付く事すらできず倒れ伏す。きっと、彼等は走馬灯を見る間すらなかっただろう。
執務室での戦いの後、甲板を目指すアイリスは船内を駆けていた。今は、階層を一つ登り、廊下を疾走しているところである。
血の匂いは、上層と比べこちらの方が酷かった。壁には血飛沫が舞い、叩き折られたであろう剣が天井へと突き刺さっていた。
そして、何より。
既に、この階層は狼達に占領されていた。
彼女の推測通り、狼はあの一匹だけでは無く既に何匹も船内へと侵入してきている様である。
先の戦いから、今ここに至るまで数分も掛かっていないが、アイリスが接敵し討伐した狼は既に十体は超えていた。
アイリスは先の戦いでは温存していたペルセウスの光刃を、今は惜しげも無く使っている。彼女の放つ光刃は的確に狼の急所を蒸発させて、狩りのペースを格段に向上させていた。
ある狼は心臓を。また、ある狼は脳天を失い、廊下に自らの肉体を墓標として倒れている。彼等の死骸からは肉の焦げる匂いのみが立ち、焼き斬られた傷口は血を流していない。
敵の命脈を一撃で焼き断つ。これこそ、ローズハート公爵家がかつて自らを英雄たらしめた剣術。ミネルヴァ剣術であり、それの根幹を成すのが人類の科学、結晶工学の粋を凝らして当時に鍛造された剣、ペルセウスである。
ペルセウスはただの細剣では無い。正体は鍔に抽出と変換、刀身には励起と定着。そして、発散の術式を名のある学者が刻み込んだ戦術兵器である。
その力は強力だった。現にアイリスは、再び眼前に現れた狼の心臓を深紅の刃で焼き貫く。
これで、十一。
アイリスは、狼の死骸を飛び越えつつ脳裏のカウント表を更新した。
そうして、また戦果を増やしたアイリスであるが、しかし、良く見るとその表情は苦々しい。
彼女の視線はペルセウスの鍔。そこに接続されていた結晶薬莢へと、より正確に言うならば、その中に収められている漆黒の結晶。エーテルへ落とされていた。
先の戦いにおいて、まるで血管が走っているかの様だったその結晶は、今ではその赤の半分を失っていた。
「……使いすぎたかな」
ペルセウスは強力だ。しかし万能ではない。光刃を放つ為のエネルギー源であるエーテルが内包するエネルギーには限りがある。内包するエネルギーが切れれば、そのエーテルはただの石ころヘ成り下がる。
古くから、人類のエネルギー源としてエーテルは大地から掘り起こされてきた。その用途は多岐にわたり、ペルセウスの様な兵器としては当然、そのほかの動力源となっている。かくいうこの蒸気船に搭載されているボイラーの稼働にも、巨大なエーテルを使用している。このエーテルから抽出し、熱に変換したエネルギーが水を蒸気に変えて、レシプロ機関を作動させているのだ。
人類にとってエーテルは貴重な資源であり、こと技術革新が起こって以降、その消費量は凄まじく、現大陸においてエーテル鉱脈は枯渇を始めている。
故に今、エーテルの価格は高い。それはもう凄まじく。
アイリスが今こうして使用している結晶薬莢だが、これ一つの値段で銃一丁は買える。
だからこそ、先の戦いにおいてアイリスはこれを温存していたし、今こうしてエーテルの残量が減っている事に僅かな焦りを覚えていた。
と、気づけばもう一匹狼が眼前に躍り出た。爪が振るわれたので、アイリスはこれを皮一枚で躱し、ペルセウスを振るう。振るわれた剣から光刃が迸ると共にそれは狼の首を刎ねた。その時にはもう、ペルセウスの刃はかなり熱くなっていた。
アイリスは舌打ちした。これ以上は少し不味い。
刃が赤熱し始めれば単に振るう事も出来なくなる。刃が柔らかくなったので直ぐに曲がり、最悪折れるからだ。
この剣の第二の弱点である。
光刃は極高温だ。そして、それを一瞬でも纏う刃は、特殊な塗布剤によって熱から身を守っているが、当然何時までもは持たない。何時かは溶け始めてしまうのだ。
アイリス達はこの状態をオーバーヒートと呼んでいる。一騎打ちにおいて無類の強さを誇るミネルヴァ剣術とペルセウスだが、連戦と乱戦は得意としない。エーテルの残弾数とこのオーバーヒートという二つの弱点が戦争には大いに邪魔なのである。
昔の戦ならばこれでよかった。戦場には将同士の栄誉の一騎討ちもあったし、信頼を置く臣下ヘ雑兵を任せ、自身は敵将を討ちにいけばよかった。
しかし、これは科学技術の発展にて通用しなくなった手である。
アイリスはふとあのカタナの事を思い出した。
──二刀目は持っておけ、か。
家庭教師に言われた事だ。
…………確かにあれは正論だったかもしれない。こうなってしまうのが分かっていれば、持ってきた方が良かっただろうか。
「……冗談じゃない」
アイリスは脳裏に一瞬浮かんだその思考をかぶりを振って払いのける。
──あの女なんかのいう事なんか、聞いてたまるか。それに私はカタナの振り方なんて知らない。知らない武器を扱って、狼と戦えるだろうか。だいたい私は、ミネルヴァ剣術を証明する為に此処まで来たのに、どうして自らそれを否定する様な真似が出来よう。
オーバーヒート寸前とはいえ、斬るくらいはできる筈だ。実際、先の戦いにて技術で狼に後れを取っていない。時間さえあれば倒せるのだから、わざわざそんな真似をする必要は無いだろう。
そうやってアイリスは自身に言い聞かせ、再度足を前に送る。
気づけば、彼女は酷く破壊された大きな扉の前に立っていた。最早壁は吹き抜けとなり、強い風が吹いている。
ここは、船員たちの談話室である。ロウェルの悲鳴は此処から聞こえてきた。
アイリスは先の反省もあり、いきなり部屋の中には入らず体を壁に寄せる。そして、耳を壁に宛がい、聴覚。そして嗅覚の二つを利用して内部を探った。
まず、臭いは此処が一番酷かった。鼻腔を埋め尽くすのは噎せ返る程の血の臭いと、それらに混じる強烈な潮の香りである。
そして、音は何か柔らかい物を引きずる様な音が響き、荒い息遣いが鼓膜を揺する。クチャリという粘ついた音も聞こえた。きっと狼だろう。この様子なら複数いるかもしれない。
そうして、内部の状況を僅かに把握したアイリスは、今度は壁の穴から、顔のみを覗かせて視覚で内部を観察する。
まず、部屋は僅かに明るかった。照明は落ちているはずだが、淡い光がどこかにあって、それが部屋を照らしているらしい。部屋の奥の方にある気がした。
そして、やはり狼が居た。それも三匹。だがその全てが部屋の中心にいて、ナニカに夢中だ。一心不乱に口を動かしている様で粘ついた音はやはり狼のそれであったらしい。
此処までで、狼に気取られた様子は無い。
──行けるか?
アイリスは僅かにペルセウスを鞘から抜いた。そしてその刀身に指をあててみると、僅かに温いがしっかりと冷めている。振るのは当然、一、二発くらいは撃てるだろう。
「……まぁ、やるしか無い、か」
息を整え、ペルセウスを抜剣。そうして足に力を籠め、アイリスは一息に飛び出した。
風の様にアイリスは室内を駆ける。ナニカを夢中で頬張っていた狼達は、アイリスに気が付かない。
アイリスは、内心しめたとほくそ笑む。そうして、彼女は瞬く間に間合いを潰すと、三匹の内一番扉側に近く、完全に背を向けていた狼の頸椎目掛けて渾身の突きをくり出した。
その一閃は深々と狼のうなじを穿つ。狼は突如として自らを襲ったその激痛に体を強張らせた。そして、アイリスはそのまま手首を捩じり頸椎に収まる神経の束を断つ。狼は激痛への咆哮を上げる間も無く体の機能を失った。
残る二匹はやっとアイリスに気付くが、その時にはもう彼女はペルセウスの引き金を引いている。
そうして、横一文字に振るわれたペルセウスはその刀身から赤い弦月を撃ち出して、同じ高さにあった狼の二つ首を刎ねて闇へと消えた。
首を喪った狼の胴体は暫し、その屈強な四肢で自らを支えていたが、それも長くは続かず床へと落ちた。
僅かに痙攣しながら動きを止めていく狼達の死骸を見て、アイリスはこの戦闘の勝利を確信し、遂にオーバーヒートを起こしたペルセウスを鞘に納めた。
そうして、アイリスは息を整える。
狼達を虜にしていたナニカは今やアイリスの足元に転がっていた。
彼女の視線は、自然とそれに落ちる。
──これは、何だろう?
狼達の爪と牙によって、とうにそれは原型を失い、いまやただの赤黒い絨毯の様に見えた。
しかしそれは濡れている。それも、真っ赤に。その深紅の水は絨毯から滲み出ている様だ。元は、別の色彩であったのだろうが、もう完全に赤へ染まり切ってしまった今。もう見る事は出来ないだろう。
けれど、アイリスはその赤の中にふと、何か別の色を見つけた気がした。
それは、この部屋の僅かな光を反射して赤の中でも小さな煌めきを放っていた。
強烈な悪臭に耐えながら、アイリスはそれを拾いあげる。まだ、僅かに絨毯は暖かかった。粘つく液体が指に絡みついてきて彼女はそれを拾い上げた事を酷く後悔したが、やってしまった事はしょうがない。彼女は、そのまま暗闇の中目を凝らして観察を開始する。
それは、銀色のペンダントだった。細かなチェーンの先に付けられたそのロケットはしっかり閉じており中は無事そうだった。
瞬間アイリスの体は硬直した。今までに感じた事の無い悪寒が最早痺れとなって全身を駆け巡る。
胃の中がグルグルと逆巻き始めた様な気がした。
「……嘘、でしょ?」
アイリスは、このロケットを見たことがある。ロウェルが肌身離さずに持っていた物であった事を覚えていた。
「嫌だ……待って、お願い。嘘だと言って……!!」
アイリスは、震える手でロケットを開く。
そこには、モノクロの写真が入っていた。見覚えのある男性が同じ年頃の女性と肩を並べ、嬉しそうな笑みを浮かべている。
『妻です。去年結婚いたしまして』と、そう照れくさそうに彼ははにかんでいた。その女性とは故郷からの幼馴染であったらしく、彼の身分では珍しい恋愛結婚だったそうな。その時の思い出を映した写真らしい。
そして、アイリスはやっと気づいた。
ナニカの正体はロウェルであったのだ。或いは、かつてロウェルだったモノという表現の方が正しいだろうか。
──間に合わなかった。救えなかった。ロウェルは死んだ。私が遅れたせいで。私のせいで。
「お前のせいで」
ふと、そんな声が聞こえた気がした。その方へ顔を向ければロウェルだったモノの中から彼の翡翠の色の目が、自らを覗いている気がした。
「ぅぷッ──!」
昼のコーヒーとサンドイッチが、彼女の口から飛び出していった。
そして、いつからか口から出てくるものが強烈な酸味を舌へ伝える液体のみに変わり、それすら出てこなくなっても、彼女のえずきは止まらなかった。




