7話
その双眸の主は、アイリスの問いに言葉を返さない。
返してくるのは荒い息遣い。
そして、噎せ返る様な殺気だけだった。
その全身の産毛が逆立ちそうな悍ましい殺気に中てられて、アイリスは無意識のうちに左足を半歩下げる。
瞬間、銀閃。
「──ッ!?」
弧を描きながら自らの首へ迫り来る、実体を持ったその殺意に、アイリスの生存本能が反応した。
刹那、彼女の足は大きく床を蹴り、身体を死に物狂いで後方へ跳ばす。
だいぶ不格好な形となったその跳躍では体勢を保てず、彼女はもんどりうって床を転がりながら頭をデスクへ打ち付けた。
「ぐっ!!」
頭に鈍い痛みが走る。加えて躱し切れなかったか、頬には一条の赤が薄く走り、彼女の顔を濡らしていた。しかしアイリスは、それを無視して脚へと力を籠める。
早く立たなければ追撃が来る。アイリスはもつれる足で何とか床を掴み、瞬時にペルセウスを構え直した。
いつでも来い。アイリスはそう頭で叫びながら扉の奥にある赤い相貌を睨みつける。
……が、追撃は来ない。
アイリスが見据える先で、双眸の主は相も変わらず舐る様な視線を向けながら、今度は執務室へとその巨躯を捻じ込んできた。
執務室のシャンデリアに照らされて、そうして遂に全貌が露わになる。
それは、異形の獣だった。
その頭高は彼女の背丈を優に超している。赤い双眸は、今は彼女の事を遙か上から見下していた。
姿形は名状し難く、強いて言えば航海中のいつかに見たアシカやトドが近いだろうか。けれど、その黒褐色のぬめりを帯びた毛皮やはち切れんばかりの筋肉を纏った胴体。そして、それを支える大木の様な前腕と、その水かきの付いた掌に伸びる剣の様に鋭い爪は明らかに、この生物がその様な可愛らしい存在では無い事を雄弁に語る。
──なんだ、コイツは?
アイリスの頭の中で疑問が巡る。眼前の存在を彼女は現大陸において見たことも聞いた事も無い。分からない事ばかりだ。
けれども、唯一分かっている事がある。
こいつは、敵だ。
その瞬間、ふとアイリスの脳裏に昼の記憶が蘇る。
『畜生。もう狼共の縄張りじゃねぇか』
それは、航海士の男が口の中で呟いていた言葉だ。
それを思い出した瞬間、彼女の脳内でバラバラに散らばっていたピースがカチリと音を立ててはまる。
上陸を目前にした、狼という人食いの化生が跋扈する地。眼前の見たことの無い、敵対的な異形の怪物。航海士の言葉。
確証はない。だが、本能が確信を告げてきた。
「……これが、狼?」
その呟きが合図になったのかもしれない。アイリスが口を開いたと同時、眼前の生物改め、狼が再びあの銀閃を振るってきた。
銀閃は、やはり狼の爪であった。床を這う様な軌道で繰り出された右手の一撃はアイリスの両脚を飛ばさんと空を切って迫り来る。
しかし速度は十分でも、それは大振りだった。先程の闇からの奇襲と比べて実に杜撰なその攻撃を、アイリスの目は確実に捉えている。先程の無様なバックステップとは打って変わり今度の彼女は、その場での跳躍で危なげなく爪を躱した。
しかし、躱したその一撃は彼女の背後にあったデスクへと命中すると、瞬きの間に巨大で頑丈だったそれを、無数の価値の無い板切れへと変えてしまった。
──なんて威力。
背後を見やったアイリスの背筋に強い悪寒が走る。
こんなもの一撃でも喰らえば最期、アイリスの華奢な身体は原型を留めない挽肉になって部屋中の壁や床に飛び散るだろう。
それを悟ると同時、アイリスは狼の攻撃を受け止める選択肢を捨てた。この埒外の膂力に真っ向から挑めば、剣もろとも体を砕かれるに違いない。
余りに生命体としての強度が違う。理不尽を体現したかの様な極限の圧力を前にしたアイリスの額には、知らぬ間に汗が流れていた。
心臓が早鐘を打つ。次は何処から攻撃をしてくるのだろうとアイリスは目を見開いて狼を見据える。
しかし、次の攻撃は待てども来ない。
「……?」
狼は入り口に陣取るだけだった。追撃は勿論、間合いを詰めようともしてこない。
……どうして来ない? 私を恐れているのか? いや、違う。これは──
狼はその場で、アイリスに粘つくような不快な視線を向け続けてくる。
アイリスは、この視線を知っていた。
それは幼い頃にもう見慣れた視線。
家庭教師が自分を踏み躙っている時、常に向けてきた目。
そして、アイリスは気付く。
──コイツ、私の事を舐めている。
侮蔑、嘲笑。それが、その視線に浮かんでいた。
今や、狼はアイリスの事を完全に格下の獲物であると決めつけている。
まるで、奴の様に。
アイリスの中で、家庭教師の面影が眼前の狼に重なった。
その瞬間だった。
彼女ですら把握できていない自らの精神の奥底で、その激情が弾けたのは。
───ふざけるな。見下すな。見下すな! 私を、見下すな!! たかだか生まれ持った肉体が多少強靭だっただけの畜生風情が!! 何を根拠に私よりお前の方が優れていると決めつける!!
そうしてアイリスの脚は彼女自身ですら気付かない間に床を蹴っていた。
脚は一度床を蹴っただけではまるで止まらず、その後も二歩三歩と勢いを増しながら蹴り出して、アイリスを狼へと突撃させる。
今まで、逃げ回るだけだった獲物が急に突っ込んできた狼は一瞬驚愕で体を硬直させるが、すぐさまその爪を一閃した。
先程の一撃で学習したのだろうか。その爪は、今度は彼女の胴を狙い横薙ぎに払われた。上半身を消し飛ばそうと掌は大きく開かれている。
そうして、力の限りに振り抜いた剛腕がアイリスの体を挽肉に変えた。
……筈だった。少なくとも、狼の思い描いた未来では。
狼は腕を振り抜いた瞬間から一瞬遅れ、脇下に焼ける様な激痛を感じた。
気が付けば、クルミ色の床に深紅の血が滴り落ちている。
それは、狼から流れていた。
対してアイリスは、何時の間にか廊下に居て、その闇に紛れている。
アイリスは、攻撃が命中する直前で体を床に滑らせ、腕と床の僅かな隙間を潜り抜けていた。そして、その瞬間に頭上を通過する狼の脇下を逆袈裟に斬り付けていたのである。
狼は視界から消えたアイリスを追い、必死にその巨躯を反転させようとする。しかし、わざわざアイリスにそれを待つ義理は無い。
闇から、銀閃が迸る。
それは弧を描く狼の爪と異なり、まるで流星の様に歪みの無い真直ぐな一閃だった。
そして、その刺突は振り向きかけていた狼の赤い双眸、その右を正確無比に穿った。更に、アイリスはペルセウスの刃を返し横へ薙ぐ。
血飛沫。そして、咆哮。
夜の暗闇の中ですら外界の景色を映した狼の眼球は完全に裂けて、永遠にその機能を消失した。
狼はその生において経験した事の無い苦痛。そして、視界の喪失という恐怖に身悶える。
絶叫を挙げながら、狼は両手と尾をがむしゃらに振り回し始めた。その乱舞はさながら、嵐の様であった。
それは執務室のあらゆる調度品を薙ぎ倒す。壁に掛けられた絵画は破れ、ソファは中に納めていた羽毛を撒き散らす。血で赤く染まった絨毯は、ぐちゃぐちゃに踏み荒らされた。
だが。
「……アイツの剣に比べれば、こんなの」
幼いアイリスを滅多切りにした家庭教師の二刀はもっと速く、もっと鋭く、もっとずっと洗練されていて、悍ましい程美しかった。
ならば眼前の。技も無ければ術理も無い、ただひたすら己が肉体の性能に胡坐をかいただけの児戯にどうして恐れを抱く必要があるだろう。
アイリスは嵐の中へと飛び込んだ。ペルセウスをしかと握り直し、致死の爪と尾の雨を掻い潜る。
彼女の身のこなしは軽やかだった。
飛び込んできたアイリスに気付いた狼は、彼女に向って力の限りに爪を振り下ろす。しかし、アイリスはその一撃を左斜め前方への僅かなステップで躱した。空を切ったその爪はアイリスの寝間着を掠めながら床を砕く。
焦った狼は追撃を出そうとしたが、其処で異変に気付いた。
見えない。
普段なら映る筈の視界。その右半分がごっそり抜け落ちている。そこに滑り込んだアイリスの姿は、狼には捉えられない。
初めて経験する視界の喪失に、狼は全く順応出来ていなかった。
そして、それはアイリスの読み通りである。
狼狽する狼を見上げるアイリスの口元には、彼女自身でも気付かない内に酷薄な笑みが浮かんでいた。
──殺った。
瞬間、アイリスは裂帛の気声を上げて突貫した。
そうして自らの体重、全身のバネの力、突貫の慣性を全て剣に乗せた全霊の突きを放つ。
「ハアァッッ!!!」
一、二、三、四。そして、五。
全てが瞬きの間に、流星群が如く閃いたその五つの銀閃は、狼の胸部を深々と穿つ。
銀閃は、その全てが狼の胸部に埋まる肋骨の僅かな隙間をすり抜けて、その奥深くに収められている、強く脈打つ深紅の心臓を正確に刺し貫いていた。
アイリスが穿った五つの傷から滝の様に血が流れ落ち、クルミ色の床を深紅一色に染め上げていく。
そして、僅かに遅れて狼はその口から赤く粘ついた泥の様な血を吐き出した。
その身体からは段々と力が抜け落ち、体温も零れ落ちる血と共に流れていく。
それを見たアイリスは狼に背を向けると、ペルセウスを振るい刃に纏わり着いた血を振り落とした。
その瞬間だった。
突如として、死にゆくだけだった狼がその顎を頬が裂けんばかりに開く。
狼は、最期の力を振り絞りアイリスの頭を嚙み砕かんと彼女へ飛び掛かった。
そして、その顎が彼女の頭を捉える寸前。
アイリスが、消えた。
彼女が伏せて自身の最期の一撃を躱したのだと狼が気付く時には、もう既に顎には激痛が走っていた。
アイリスは伏せた後、そのまま狼目掛けてペルセウスを突き上げている。刃は、狼の顎と舌を貫き上顎へと突き刺さっていた。
しかし、其処までしてなお、狼は未だ息絶えない。
「──高いから、使いたく無かったけど」
そう、アイリスが呟く。
そうして言葉と同時、彼女は鍔の一部として完全に溶け込んでいた、ペルセウスの引き金を人差し指で強く引いた。
瞬間、鍔に刻み込まれていた回路が、同じく引き金に刻まれていた起動用の回路と接続された事で、それその物が術式として起動する。
起動した術式の影響は、交戦前に彼女がペルセウスへと装填したアイテム。結晶薬莢の電極にまで及び、それは内部へと収められていた結晶を活性化させた。
ドクン。と、結晶が脈打つように目を覚ます。
その漆黒の結晶にはまるで血潮が如き模様が走った。
と、同時にその模様の一部が文字通り、術式に吸い上げられた。
その吸い上げられた赤は、電極から鍔の術式を流れ、刀身へと辿り着く。
その瞬間。ペルセウスの刀身は淡い燐光を纏った。
まるで薔薇の様な赤い燐光は、瞬く間に周囲を焼き焦がす様な熱を帯び始め、そして、それがペルセウスの白銀の刀身を鋳溶さんとする寸前。
アイリスは僅かに腕を突き出して、その燐光を撃ち出した。
殆ど勢いを付けられずに刀身を離れた光刃は、寸分違わず狼の頭部の中で弾ける。
そうして、灼熱の燐光を吞み込んだ狼の頭蓋は、跡形も無く蒸発していた。
肉の焦げる匂いを放ち、首から上を喪った狼の巨躯は遂に床へと沈み込む。
もはや、その肉体は痙攣すらしていなかった。
そしてアイリスは斃れた狼に最早一瞥もくれず、廊下の闇へと駆けだした。
暗闇に包まれた廊下には、今も尚不気味な音が木霊する。
そして、戦いを終えた今、アイリスはずっと香る強烈な鉄の匂いの正体にやっと気づく。
──これは血の匂いだ。狼は、きっと今の一匹だけでは無いだろう。
そうして、アイリスはペルセウスを握りしめ、廊下に自らの跫音を響かせながら闇を駆けていった。
さて、先の戦いでの激情は少しはしたなかっただろうかという疑問は、遂に始まった戦い。その初陣にて白星を上げた高揚の中に居る今のアイリスには浮かばない。
早く、ロウェルの元へ行かなければという責任感と、自分の剣は狼に通用すると証明できたことの喜び。そしてそれ以上に、家庭教師の面影が映った相手を自らの手で斬り伏せてやったという達成感が彼女の全身の血管にくまなく流れ、それ以外が入り込む余地は微塵も無かった。




