6話
アイリスは微睡の中、鈍い低音とその間に鳴り響いた、聴き慣れた気がする甲高い音を聞いて目を覚ました。
「……んぅ?」
アイリスが体を起こすと、頭から毛布がずり落ちた。
張り付いた瞼を擦って開き、周囲を見て見れば、真っ暗である。
そこでアイリスは気づいた。
──しまった。寝過ごした。
数時間だけ休んで、日が昇ってるうちには戻ろうと思っていたのに、いつの間にか夜になってしまったらしい。
アイリスは慌ててベッドから飛び降り、寝間着のままドアまで駆けていく。
「ごめんなさい、アナ! 寝すぎちゃった!」
そう言って勢いよくドアを開けた先の執務室には、誰も居なかった。
「……あれ? アナ?」
デスクの上を見て見れば、彼女に託した仕事はもう終わっている様だった。
であれば、そのまま寝ているアイリスを起こさない様に部屋から出て行ったのだろう。
アイリスはその気遣いをアナらしいな、と思う。
「そっか……ふふっ。ありがとう」
誰に聞かれるわけでも無いが、それでもアイリスは感謝を伝える。
その感謝は誰も居ない執務室の中で、鳴り響く鈍い低音に塗りつぶされて届く事は無いだろう。
だが、声に出す事が大事なのだ。かつて、父からそう教わった事をアイリスは思いだす。
……ところで、だ。
──さっきから聞こえるこの音は、一体何なのだろう。
軋む様な低音は、航海中に船体からずっとしていた。それは波が船を揺らし軋ませる音である。
だが今は、軋む音だけではない。同時に何か別の音が混ざっているのにアイリスは気付いていた。
それは、この半年の航海で一度も聞いたことが無い音である。やけに重々しい、堅い物と堅い物がこすれ合う様な音だった。
だが、アイリスはそれをどこかで聞いた事がある気がしている。
何だったかと、その音の正体を記憶から探ってみれば、ふと思い当たる物があった。
石臼だ。それも巨大な。
かつて領地でそんな物を見た記憶がある。今鳴り響くこの不気味な低音は、重く硬い石と石が間に穀物を挟み、擂り潰している時のそれによく似ていた。
だが、それにしては音のリズムがおかしい。石臼ならば、常に音を鳴らす筈である。なのに、それはかなり不安定なリズムで気持ちが悪い。
より耳を澄ませば、時折その合間にクチャリ、クチャリと粘ついた音が鳴っている事に気付き、それがその音の気色悪さをより一層際立せる。
そもそも。
この船には、石臼など載せていない。
思えば、部屋の匂いも変だ。
強烈な鉄の匂いに、何か魚の様な、それか、獣の様な奇妙な生臭さが混じった匂いが漂っている。
それは、執務室のドアの隙間。そして、窓から流れ込んできている様だ。
さっきの甲高い音にしてもそうだ。
それは、堅く鍛え上げられた鉄同士がぶつかり合う音だった。
アイリスは幼少期、それを幾度と無く剣の稽古で聞いている。
それは、剣戟の音だった。
──なにか、おかしい。
そう、気づいた時だった。
「あ、あぁッッ! や、やめろ! やめろ!! 離せ! 離せッっ!! このバケモ──っっッい”ぎあぁ”あ”あァッ”ア”ア!?!?あ”あアぁあ”あぁっッっ!!!!!!」
そのけたたましい断末魔がアイリスの耳朶を打ったのは。
「……ッ! ロウェル!?」
アイリスは、今の声の主に心当たりがあった。
きっと彼の物だろう。名をロウェルという。昼彼女が廊下を歩いている際に見かけた、談笑をしていた二人組その片割れの男性だ。
刹那アイリスは寝室へと踵を返して駆けだすと、寝間着のまま、外していた剣帯を手早く腰に巻いて、壁に掛けられていたペルセウスを今度は自らの腰に吊り下げる。
その次にデスクの引き出しを開けると、其処には掌程の棒状のアイテムが六本入っていた。
それはその実、金属性の筒であり、その両端には複雑に絡み合う”回路”の描かれた”電極”が取り付けられている。
容器はその空洞に漆黒の結晶を納め、側面に付けられた小さな硝子が中の様子を映す。結晶はその内部で電極と接続されている様だった。
そうしてアイリスは、その内五本を剣帯のホルダーへ収めると、最後の一本はペルセウスへと装填する。そのアイテムは、まるで元より其処に有るべきだったかの様に、ペルセウスの鍔ヘ寸分違わず接続された。
最後にランタンを手に取ってアイリスは最低限の装備を整えると、執務室の扉の前へ立ち、ペルセウスを鞘から抜き放つ。
──何が起きているかは分からない。だが、とにかくロウェルを助けなければ。
アイリスは逸る使命感に突き動かされ、勢いよく扉を開ける。
そうして視界に広がった廊下は、完全な暗闇に塗りつぶされていた。
灯っているべき光が消え、色を切り取られたかの様に黒い廊下は、まるで怪物の腸の中にでもいるかの様な錯覚をアイリスへ与えた。
先程からずっと感じていた奇妙な匂いと低音は眼前の暗闇の奥から来ていた。扉を開け放った瞬間、それらはより一層強烈さを増してアイリスの五感を揺さぶった。
刹那、アイリスはその顔を激しい嫌悪感で歪める。
しかし、それは鼻がもげる様なその悪臭から顔を背けた訳でも、鼓膜に虫が這いずっているかの様な不快な音に耳を塞いだ訳でもない。
「……誰?」
”それ”が居たからである。
眼前に広がる暗闇の奥底には、アイリスを舐る様に見つめる赤い双眸が浮かんでいた。




