9話
アイリスは、ひとしきりその腹から出せる物を出し切り、身を軽くしてから腰を上げた。口周りを拭い、深呼吸をして乱れた息と脈拍。そして精神をどうにかして落ち着ける。
どれ程そうしていただろうか。アイリスは、それを数時間の様に感じたし、数秒の様にも感じた。
そうしてやっと、多少は靄の晴れた頭でアイリスは今やるべき事を考える。
『お前のせいだ』
今一度アイリスはロウェルだったモノへ視線を落とす。彼の翡翠色の瞳は覗いていなかった。きっと幻聴だったのだろう。死体がどうして喋れるというのか。
……同時に、この言葉は事実だろうな、とアイリスは思う。
今なお、後悔や自責の念は渦巻いていたが、けれど自分が今なすべき事は自戒に沈む事ではない。戦う事だ。
必死にそれらを脳裏から追いやって、アイリスは責任を果たさんと頭を回した。
まずは、侵入してきた狼達を鎮圧しなければならない。
その為にも、今のアイリスにはやらなければならない物が二つある。
「……他の皆は……アナは無事なのかな」
まず、他の生存者との合流だ。
先程までの戦いから、アイリスは一人で状況を鎮圧出来るとはもう思っていなかった。一人では出来る事も限られている。
よくよく耳を澄ませば、鬨の声の様な物が聞こえる。居場所に関しては判然としないが、きっとまだ生きている者はいる筈だ。
仲間達。特にアナと合流したい。彼女ならこういった状況に慣れている。何よりアイリスは、個人的に彼女の安否が一番気がかりだった。
さて、次に侵入経路であるが、こちらの方は探すまでも無かった。その一つは、この部屋にあったから。
まず、この部屋を照らす淡い光源。それは月光であった。
部屋の奥。そこにあった壁は無残にも破壊されていた。
大柄な狼でも同時に数匹は侵入可能な大穴が作られており、月光は其処から差し込んでいる様だ。潮の匂いもそこから入り、部屋の中を満たしている。
アイリスは穴へと近寄り、その周辺を観察した。
きっとここが狼達の侵入経路だった。
穴周辺の床は、水浸しだった。こびり付いたぬめりも酷い。狼達の手には水かきが付いていた。であれば、彼等は海を泳ぎ此処まで這い上がって侵入してきたのだろう。
同時に、アイリスは恐らく此処だけでは無いとも思う。
実際に、狼の気配は今も尚途切れない。今アイリスの耳には狼の咆哮が届いている。それは、外から吹き込む風に乗ってきていた。
ただ、その咆哮には人間の鬨の声も混じっていた。
場所は、甲板だろうか。もしかしたら皆そこで狼の迎撃に当たっているのかもしれない。
ここで足踏みしていても何も始まらない。アイリスは、次の目的地を甲板に定め、踵を返す。
このまま甲板に出たら挟撃される可能性も考え、バリケードを設置する選択肢もあったが、ここにある物では大した物は作れそうにない。狼の膂力ならば気休めにもならないだろう。であれば、早く皆と合流した方が得策だ。
──これ以上犠牲者を出す訳にはいかない。急がなくては。
アイリスは甲板へ急ぐ。
と、その時であった。
突如轟音と共に船体が突き上げられた様に激しく揺れた。アイリスは突然の事に短い悲鳴を上げて尻餅を着く。腰や尻に痺れの様な痛みが広がった。
「な、何!?」
轟音は止まらない。まるで噴水を、何倍にも大きくした様な水の音が外から響き渡る。それはまるでこの船を囲むように聞こえてきた。
アイリスは突然の事に狼狽しながら、へたり込んだままの姿勢で穴の方へと振り返る。外の景色は、この異常の正体を克明に写していた。
「……は?」
……映してなお、アイリスはその感想しか抱けない。
海には、濡れそぼつ柱が屹立していた。
その柱は、船のマストの高さすら超えて聳え立つ。そこに美しさは欠片も無く、てらてらと、滑った輝きを纏ったそれは、全身の筋肉を悍ましく脈動させて蠢いていた。そこからは筋肉の軋む音が響き渡る。
そして、柱は一本だけでは無い。それは、船を取り囲む様にして四方に現れていた。アイリスからは見えないが、それは合計して八つ存在している。更には、船の直下にはこれよりは小さく、けれども人の身など遙かに超えた大きさの触手が船体へ絡みついてきていた。
「……なんなの、これ?」
生き物、ではある筈だ。きっと、新大陸の。となると、これも狼だというのだろうか?アイリスは、現大陸のイヌ科の動物。狼について良く分からなくなってきていた。
と、ぼんやりと痺れ始めてきた脳で意味の無い思考を回していると、突然柱が折れ曲がる。それは、そのまま船目掛けて倒れ込み、船体を強打した。
再び衝撃が船を揺らし、アイリスの体は僅かに空中に飛び上がる。次に柱はその全身を船へと巻き付け始めた。
船体がその強烈な圧力に悲鳴を上げる中、外壁は潰れ船はその形を変え始めた。
──いや待て、呆けている場合ではない。何とかしなければ。
アイリスは腰を上げ先程の穴へと駆け戻る。
穴から僅かに身を乗り出してみれば、船体に絡み着く柱の一本が眼前一杯に広がった。それが垂らす海水が雨の様にアイリスの頭を濡らす。
距離は近い。この間合いであれば、直接刃が届くだろう。
アイリスはペルセウスを抜き放った。それなりに冷ました筈だが、まだかなり熱を持ったその刃を、全霊を以てその柱へ突き立てる。
切っ先が深々と柱に沈んでいった。
肉が焼ける音が響くと同時、その柱に開いた傷口から煙が立つ。僅かに香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
しかし、それだけである。それ以上の事は何も起こらず、柱は変わらず船に絡みついてきた。反応など一切ない。柱は船体から放れて深海に逃げ帰る事も無ければ、絶叫を上げる事も一切なかった。
全く効いていないとアイリスが気づくのにそれ程長い時間は掛からない。
「──あぁ、もう! お願いだから少しは痛がってよ!!」
アイリスは思わず声を荒げる。これでは埒が明かない。有効打を与えられるとしたら、光刃を放つしか無いだろう。だが、一日に何度もオーバーヒートを起こすわけには行かない。刀身が歪めば、同時にそこへ刻まれた術式も歪んでしまう。そうなれば、効力を大幅に減らすか、下手をすればその術式自体が使い物にならなくなってしまうのだ。この状況下で、光刃を喪う訳にはいかない。
つまり、アイリスは現時点でこの狼に対し出来る事は無かった。
──どうすればいい? どうすれば、この肉塊と戦える?




