10話
アイリスは、ペルセウスを柱から引き抜いたと同時、その白い歯を焦燥から軋ませる。
と、その時アイリスは自身に迫り来る異音を捉え、反射的に身を引いた。
刹那、猛烈な勢いで海面下から飛び出してきた鋭い突風がアイリスを掠め、彼女の髪。その毛先を数本空に舞わせる。
アイリスは身を引いた勢いのまま室内へ転がり込んだ。僅かに遅れて先程、アイリスを掠めた風は、そのまま彼女を追って室内になだれ込む。
それは、ミミズの様な触手の束だった。無数のそれは蠕動しながら部屋中の床や壁、天井を隙間なく覆い尽くしていく。その様子はさながら植物の蔓の様である。その吐き気を催すような肉感さえ除けば、だが。
アイリスの胴程の太さがある触手は蠕動しながら、先端から生える大鎌が如き爪を彼女へ閃かせる。アイリスは、先ず自らの腹を穿たんと迫り来る爪をサイドステップで躱し、次に頭部へ迫る爪を屈んで躱すと同時ペルセウスを横に振るった。
アイリスの銀閃は次の瞬間、彼女の頭上を通った触手を斬り飛ばす。斬り飛ばされたそれは、傷口から僅かに煙をくゆらしながら地面へ落ちると、まるで踏みつけられた蛇の様に暫く身を捩らせながら激しく藻掻くが、少しして冷たくなった。
だが、攻撃の手は止まない。確かに爪を斬られた触手は直ぐに海へと逃げ帰ったが、如何せん数が圧倒的に多すぎる。たかだか一本ではその弾幕に穴を開ける事は出来ない。
触手共は、全くもってキリが無かった。一本斬れば、新たに二本なだれ込んできて、その二本を斬れば今度は四本と増えていく。そうして、アイリスを完全に包囲していた。
それでもアイリスは諦めない。しかとその目を見開き、迫り来る脅威を死に物狂いで斬り払う。
アイリスは完全に無策という訳では無かった。いや、これを策と呼ぶかは多少怪しい所があるが、とにかく彼女の脳裏にはこの部屋に居るのが不味いという結論が出ている。
まず触手共は部屋に空いた穴から侵入してきていた。ここ以外の所からは入り込んできてはいない。そして、包囲網はこの部屋のそれなりにある広さを利用して作られている。天井、壁、床全面を這いずり回し、アイリスの事を囲んでいた。
つまり、廊下まで逃げる事が出来れば、アイリスは多少状況は改善すると見ていた。廊下ならば触手共の侵入口からも距離を取れ、狭い空間では相手の攻撃の方向も制限できるはずだ。向かいあっての交戦なら、アイリスに分があるだろう。
そうして、目下の目標を廊下への脱出に定めたアイリスは触手と爪を必死に躱し、捌いて僅かに、けれども、確実に廊下へ繋がる壊れた扉の方向へ移動を開始した。
初めは、不規則に思えていた攻撃も暫く打ち合えば多少の法則性が見えてきた。
何より、触手共にはやはり技術も無ければ思考も無い。単調に、フェイントも無く振るわれるそれを、アイリスは何とか見切り続ける。
額に冷や汗を滲ませ、僅かに息も乱れ始めたアイリスであるが、これならばなんとかなるかもしれないと僅かにほほ笑えんだ。
けれど、そのわずかな緩みが仇にでもなったのだろうか。
「──うぁっ!?」
ある時、跳躍で爪を躱し、床へと着地したアイリスの脚は、突如として摩擦を失い床を滑った。
突然の事に、彼女は激しくつんのめる。触手が垂らす体液と、海水で滑ったのだと気づいた時には、彼女はもう捕まっていた。
全身総毛だつ様な不快な感触が、瞬きの間に左足のふくらはぎから、太股へと這い上がる。瞬間、彼女の天地は逆転した。
万力の様な力が彼女の華奢な脚を締め上げ、そのまま彼女を猛烈な勢いで穴の方へと引き摺り始める。きっと、海中に引き摺り込むつもりだろう。
それは不味い。アイリスは当然ペルセウスで触手を斬ろうと藻掻くが姿勢が余りに悪い。脚に絡まる方を斬ろうにも、この状態では間違いなく自分の脚も傷つける。締め付けられて痛めた上に傷ついた足で、あの弾幕を捌き続けられるとは、アイリスには思えなかった。けれど、足首から先の絡みついていない方には、間合いが足りずにそもそも刃が届かない。光刃を放てば届くだろうが、今撃てばペルセウスは間違いなくオーバーヒートを起こす。
ここでアイリスは選択を迫られる。
視界の下端に映る海はもうすぐそこまで迫っていた。
──迷っている暇はない。
アイリスはペルセウスの引き金を引いた。刀身を焼き焦がす紅い燐光は室内の夜闇を切り裂いて飛翔し、アイリスを掴む触手を焼き斬る。彼女の脚に絡みついていたそれは斬られると同時にアイリスを放り投げたので彼女は頭から床へ落ちた。
アイリスは、腕を後頭部に回して頭を守る。床に背中が打ち付けられると、強い衝撃と共に一瞬息が詰まったが、気合で直ぐに起き上がり、彼女は部屋の外を目指して全力で疾走した。
その間にも爪は振るわれる。しかし、アイリスはそれを躱す事しか出来ない。今やペルセウスは完全にオーバーヒートを起こしている。もう爪を斬り払う事は出来ないだろう。
アイリスは全身の神経を限界まで尖らせて疾駆する。迎撃という手札を失ってしまった今、彼女の体には無数の切り傷が刻まれていた。特に、左足は僅かに腫れ始めていた。
だが、アイリスはその痛みを無理やり無視して脚を動かす。幼い頃から痛みに慣れていなければとうに終わっていただろう。
永遠にも感じられた逃走は、遂に彼女が破壊された扉の前にまで辿り着いた事でようやく終わりを迎えそうだった。
──届く!
そう、アイリスは確信した。廊下に飛び込む為、彼女は無事な右足に力を込めて身を沈めた。
が、その時、先程まで部屋全体に細かく満ちていた殺気が、急激に一点へ収束してその密度を増す。うなじに電流が流れたかのようなその殺気をアイリスは感じるが、姿勢が悪く今更どうする事も出来なかった。
「ぅぶっ!!」
瞬間、彼女は余りにも暴力的な質量を全身で受け止める事になる。
触手は互いが互いに絡み合い、一本の剛腕と化していた。まるで引き抜かれた大木が如きそれの威力は凄まじく、殴られたアイリスの口からは潰れたカエルの様な声が漏れる。
脚は床を離れ、身体は木の葉の様に吹き飛んだ。床を勢いよく転がり、視界は二転三転して、脳漿は渦を巻く。そのまま壊れた扉を超えて廊下の壁に激突して、ようやくアイリスの体は止まった。
背骨が軋み、胸が潰れて息が詰まる。廻る眼前には白星が舞っていた。息を吸おうと口を開けて喘ぐが、余りの痛みに肺が上手く空気を吸い込んでくれない。
想像を絶する苦痛に蹲るアイリスだが、狼は当然、彼女の苦痛など路端に転がる石ころ程にも興味が無い。
触手は動けないアイリスへと這い寄ると、彼女の体を締め上げる。
先程捕まえた時に逃した事を覚えているのか、今度は足だけでは無く全身に絡みついてくると、彼女を空中に持ち上げた。
先程以上の剛力が彼女の体を舐り、潰そうと締め付けてくる。
息が出来ない。今度は、痛みで詰まっている訳では無くただただ、締め付けられて気道が文字通り潰されているからだった。
「ヵあっ、ぁ!」
大声を出せない。助けを呼べない。そもそも呼んだところで来てくれるかなんて分からない。
次第に視界もかすみ始めた。端が白く変色し、そして暗転していく。
このままでは、本当に死ぬ。ペルセウスはまだオーバーヒートしているが、しかし、何が何でもこの状況を打破しなければならない。酸素を遮断され、機能を停止していく脳でままよ。とアイリスは引き金を引いた。
だが、その刀身は何時まで経っても燐光を纏う事は無かった。
「──なん、でっ?」
狭窄した視界でアイリスはペルセウスを睨む。そして、原因を理解した。
結晶薬莢のエーテルが、どす黒く変色していた。
もうすでにその結晶に赤は浮かんでおらず、最初は澄んで光を内部で乱反射させていた結晶は、その輝きを失い、インクで塗り潰したかのようにくすんだ黒い石ころに成り果てていた。
さっきの一発が、どうやら最後だったらしい。
リロードしようにも、縛り上げられた手では剣帯に吊るした結晶薬莢に届かない。
破れかぶれに赤熱した刃を押し付けると、数本は焼き切る事が出来たが束全体を切断するには至らなかった。
寧ろ、それで刺激してしまったのか、より一層強い力にアイリスは締め付けられる。
気づけば、もう視界が半分以上暗転していた。アイリスは酸欠で靄がかかる脳で、激しい苦痛を感じる自分と、それを何処か他人事に俯瞰する自分を感じた。
──あれ? わたし、本当にしんじゃうのかな。
自らを俯瞰するアイリスは、呑気にそんな事を考えていた。
──いやだな。しにたくない。まだ、しにたくないな。わたしは、なにものこせてないのに。まだ、わたしは、だれにも……
アイリスの心の中で本音の欠片が漏れ出すが、消えゆく思考のせいでアイリスはそれを自覚する事すらできない。
意志とは無関係に、瞼は鉛の様に重くなる。そうして、遂に意識の糸が切れる。
その寸前。
「その子を離しなさい! このっ化物が!!」
聞き覚えのある声と共に彼女の眼前を白い雷光が通り抜けた。
アイリスを締め付けていた筋肉の束は纏めて焼き切られ、彼女ごと床へと落ちると絡みあっていたそれは絹糸の様にばらりと解けた。
圧力から解放されたアイリスの全身に、血流が再度流れ始める。圧迫されていた気道も解放され、アイリスは激しく噎せ返りながらも、がっついて息を吸い込む。
肺が吸い込んだ空気から酸素を取り込み、全身に、そして脳へ供給されるにつれて、段々と明瞭な視界と思考を取り戻していった。
そうして、アイリスは鮮明になった視界にその白を映す。
見覚えのある後ろ姿。いつもそばで自らを守ってくれた彼女の背は、本当は同じ位の大きさなのに、今のアイリスには遙かに大きく見えた。
「……ア、ナ?」
無事だったんだと、アイリスが声を掛ける間も無く、狼は斬られた触手を海へ引っ込み再度新たな束を船内に捻じ込み、爪をアナへと突き出した。
だが、その悍ましい光景を前にしてもアナはまるで怯まない。彼女はアイギスを上段に構え、引き金を引くと同時に渾身の力でそれを振り下ろした。
刹那、アイギスからは閃光が迸る。その極高温の光はまるで獣の爪の様に広がるとアナの鼻先まで迫っていた爪を消し飛ばす。それらは海に逃げ帰る事も出来ずアナの眼前で灰と化した。
アナは、それを確認すると同時に踵を返してアイリスへ駆け寄ると彼女を抱え上げる。
「揺れるけど我慢して!」
「……う、ん。ごめん、なさい」
「いいの、謝らないで。それより口を閉じといてね。舌、咬んじゃうわよ」
そうしてアナは全速力で駆けだし廊下に広がる闇へと飛び込んでいった。
彼女の細腕や華奢な身体のどこに此処までの力があるのかという疑問は、アイリスは抱かない。
今のアイリスには、アナに頼る他に生き残る術は無かったので、そのままされるがままになる。
情けないなと、心の底から思った。
けれど、それは結局口には出せず、黙ったままアナの腕に体重を預ける。
アイリスは今、息をするだけで腸がひっくり返りそうな激痛の中に居るのだ。そうする以外に何ができよう。




