3話
”狼”
彼等の恐怖を詠った噂は、数知れない。
それらの内容はあまりに多様だ。しかし、ある二点に於いて、それら全てに共通している物がある。
一つ。それは、人間が狼に惨たらしく殺される事。
二つ。そして、それらは全て実話であるという事。
当然アイリスがこの話を知らない筈もない。
「怖くなんかないよ」
けれども、アイリスはそう答えた。
真直ぐにアナの目を見ながら、一切の迷いの無い目で。
「向こうでは、きっと今も狼達に怯えてる人が大勢いる。……"ワイルドハント”が今も大勢の人々を殺してる。だから私達が彼等を斃して、人々の事を守らなきゃならない。私達には、与えられている力に見合っただけの責任を果たす義務があるから」
アイリスはそう語る。彼女の宣言は、部屋に僅かにわだかまる波の音をかき消すかの様に力強かった。
きっと真意だろうなとアナは思う。が、同時に、こうも思う。
──それは、家の総意でしょう。
アナは、ある昔の日々を思い出す。
その記憶は、当時幼かったアイリスの怯えた表情を映し出していた。
アイリスに大いなる義務とは何たるかを、声を荒げて何時間も説いた彼女の父。
アイリスに、その齢に明らかに見合っていない学問を習わせ、彼女が目尻に湛えた涙を情けないと叫んだ彼女の母。
鈍らで滅多切りにされ、薄く。けれど全身に血を流して倒れるアイリスを、高価な革靴で踏み躙っていた彼女の家庭教師。
彼等を前にしたアイリスの顔は、何時も恐怖で青褪めていた。
彼女に怯えの感情が無い筈がない。
ならば、どうして。彼等に立ち向かおうと思えるのだろう。
──私はこんなにも、怖いのに。
「……えぇ、そうね。それは確かにそうだわ。でもね、アイリス。貴女だってワイルドハントの話は聞いてるでしょう?」
”ワイルドハント”
それは自らの行路に死をばら撒いて歩み続ける、頂点捕食者。そして、それが率いる、地平を埋め尽くす大群ヘ人類が恐怖から与えた名。新大陸に根付く、今は五つの生ける天災である。
「……正直な話をするとね、私、彼等に勝てる自信が無いわ」
彼等の脅威と恐怖は、伝聞により大洋を渡った現大陸においても、まことしやかに囁かれていた。
相手が人であるならば、アナは不安など抱かない。
自らを遙かに超える達人と刃を交える事になったとしても、つけ入れる隙は必ずある。
所詮、同じ人間だ。勝つだけならば、いくらでもやり様がある。
──だが、相手が天災であったなら?
「アイリス。私はね、今すっごく怖いの。人間が相手だったら、私の剣は通用する。でも、天災が相手だったらそうは行かない」
人は古くから自然と対峙し、そして敗北し続けている。
人類の特権たる、連綿と受け継がれる知恵は、彼等の振るう圧倒的な質量の暴力に蹂躙されてきた。
「剣で洪水を斬れる? 盾で雪崩を押し止められる? ……少なくとも、私は無理だわ」
今は穏やかな、船に打ち付けられる波も、今はその気が無いだけだろう。
きっと、荒れ始めたら、アイリス達は抵抗の余地など無く、暗い海底へ打ち付けられる筈だ。
アナは、それが怖い。
鍛え上げた剣でも、天災には届かない。
届かなければ、何かを守る事など出来はしない。
そうして、一方的に蹂躙され、目の前で大切な宝物を。
──貴女を奪われるのが、たまらなく恐ろしい。
そういったアナの手は、アイリスには僅かに震えている様に見えた。
「……そっか。ねぇ、アナ? さっきのだけど、少し訂正していいかな?」
勘違いかもしれない。しかし、そうして怯えている様に見えた姉を前にアイリスはこう語る。
「──完全に狼が怖くないって言ったら、やっぱり嘘になるかも。」
アナだけでは無い。アイリスとてそうだ。
「やっぱり、不安はあるよ。怖くもある。だって狼達は数え切れない程向こうに居て、その全てが私達を遙かに超える怪物なんだもの。怖くない訳がないよ」
だけど。
「でも、それで怯えて足を止めたら、私はレッドフードに辿り着けない。私は、私の存在証明の機会を一生失ってしまう。──私は、そっちの方が怖い。だって、そしたら私は何の為に此処まで生きてきたのか、自分で分からなくっちゃう」
だって、今までの苦痛は、全てこの時の為なのだから。
「私はね、アナ。皆を驚かせたい。私達はまだ終わってない。貴方達がこれまで散々バカにしてきた英雄は、まだ落ちぶれてないんだぞって、連合の皆に認めさせたい」
時代遅れの老いぼれ。カビの生えた化石。英雄気取りの傭兵崩れ。
それは、アイリスが幼かったあの日々に、目の前で父母に投げかけられていた言葉だ。
その時の両親の顔をアイリスは、今も鮮明に覚えている。
──だから私は、あの人達が誇ってくれる様な英雄になりたい。だって、この世に私を生んでくれた恩人なのだから。
「悪を挫き弱きを助ける正義の勇者は、まだ実在してるんだって。ワイルドハントを斃して、私は世界中の人達に証明したいの」
何より、アイリスは使命を果たしたい。それが、どれだけ歪んでいたとしても。
両親だけでは無い。この血筋に連綿と受け継がれてきた、”英雄になる”というこの使命を。
──だって、これすら喪えば、私には一体何が残るというのだろう? 使命すらない私など、一体だれが認めてくれるのか。
今、アイリスの瞳には、恐怖を前にしても決して揺るがない、強い覚悟が宿っていた。
そして、彼女の瞳を見たアナはある日の昼を思い出す。それはかつて、アナとアイリスが出会って間もない日。
それは、街でアイリスが物乞いの男に襲われて、それをアナが制圧した記憶であった。
その襲撃は、逆恨みから来る余りも理不尽で支離滅裂な物だった。
無論、アナはその首を刎ねようかと思った。敵に情けは必要ない。すべからく滅すべし。ずっと、そうやって教わったから。
だが、そうして一歩踏み出したアナを、幼いアイリスは押し留めた。
そしてあろうことか、彼女はその襲撃者を許し、果てには当時、彼女のなけなしの小遣いをその男へ渡したのだ。
殺されかけたという恐怖を、必死に押し殺して。
その日の事を、もうアイリスは覚えていない。当然その日に言った自らの言葉も。
だって、力を持つ者としてそれは当たり前の事だから。
けれど、アナは覚えている。
アイリスのその言葉は、今の自分を形作る物だから。
『貴方がこうして苦しんでいるのは、全て私達の責任です。本来私達が守るべき貴方達にこうして苦難を強いてしまい、大変申し訳ございません。せめて、こちらを。……それで足りないのであれば、どうか』
私の首を落としてください。
結局、その物乞いの男は、自らよりも遙かに幼い少女にそう言われて、呆気に取られていた。
その後は自ら縄に付いていたのを覚えている。
そんな事なんて無いのに。仮にそれが本当だとして、没落はアイリスが生まれる何代も前から始まっていた。何代も前の責任を何故彼女が背負わねばならないのか。
それが、アナには分からなかった。
けれど、美しいと。それが、優しさで強さなのだと。そうアナは思った。
ただひたすら、宗家の懐刀として育てられ、冷めきってしまった当時の心に、暖かな火が灯った様なあの感覚をアナは忘れない。
それからだった。アナが血筋の使命として背負わされた物で無く、自ら望んでアイリスを守ると心に誓ったのは。
その日から、アイリスはアナの一生の憧れとなったのだ。
「……うん。そっか。ふふっ、そう言えば貴女は昔からそんな娘だったわね」
そう言ったアナの声にはもう不安は滲んでいなかった。
アナは、静かだったその部屋に、甲高く足音を響かせて、デスクの横からアイリスの眼前へと移動する。
「有難う。アイリス。おかげで不安なんて吹っ飛んじゃった! ……例え、ワイルドハントがどれ程の天災だろうと、もう関係ないわ。私は私の役目を果たす。貴女がその夢を果たせるように、私が貴女を命を懸けて守り抜く。失うのが怖いなら、失わないように、守れるように、今一度私が強くなって守ればいいもの」
彼女の歩調は、式典に臨む騎士のそれである。背はしかと伸ばされ、口は一文字に結ばれていた。
そして、アナはウールの絨毯で振り向くと右手をアイリスへ差し出した。
「──やはり、私は貴女の剣として、そして盾として。これからもこの命を燃やすわ。例え、この身が朽ち果てようと構わない。魂だけとなろうとも、私の忠義は色褪せる事は無いと今再び誓うわ。だから、どうか、ずっと貴女の傍を歩かせてアイリス」
「うん、勿論。私の従者はこれまでも、これからも、アナしかいないもの。どこまででも私が導く。だから、これからも私の背を守ってね」
そう両者が言った頃には、海風は収まり海面は凪いでいた。
そうして、その静けさの中で、アイリスは差し出されたアナの手を再び取り、窓に映る太陽に照らされて煌めく海原を今度は二人で一緒に眺めるのだった。
アイリスがアナの手を取った瞬間と全く同時。彼女達の行く航路へ重なる、暗鬱たる深海で、その蒼白の巨影が蠢いたのは、きっと、ただの偶然だろう。




