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果ての無きワイルドハント  作者: 半纏豚
萎れた薔薇
3/11

2話

 艦橋を後にしたアイリスは、その後甲板を歩き、船の内部へ繋がる階段を二階層程、下りていた。


 階段を下りた先には廊下が広がり、アイリスは船尾側へと続く廊下へ足を伸ばす。

 先程誰も居なかった甲板と比べ、そこにはある程度の人がいた。


 ある者はゆっくりと廊下を往来し、ある者は二人一組を作って談笑していた。また、ある者は大きな麻袋を抱えて、せわしなく駆けている。

 

 波も低く、昼の穏やかな空気に包まれたその船内では、皆思い思いに異なる事をしていたが、アイリスが通りかかるとこれだけは同じく、皆一様にその頭を恭しく下げた。

 その敬礼にぎこちなさは無く、幼少期から叩き込まれてきた動きは、とうに骨身へ染み込んでいる。

 彼等のあらゆる所作は高貴とはかくあるべしと語っていた。


 彼等は、この半年よりもずっと前からアイリスに付き従ってきたローズハート公爵家に仕える人間である。

 かつて公爵家に忠義を誓い、主君へ命と剣を捧げた人間達は、その忠心を血筋と共に子へ受け継いだ。そしてその末裔が、今この蒸気船に乗る彼等である。

 こと、今この船内に居る彼等は、主君が没落という憂き目に晒され、その煽りを食らいながらも決して義に背く事の無かった者達である。彼等が抱くアイリスへの。否、ローズハート公爵家への忠心は、なんとも堅く、そして深い物であろうか。


 或いは、例え落ち目でも、この飼い主に尻尾を振っていた方が、エッセンシャルワーカーより幾分マシな給与を貰えるからという理由もあるかもしれないが。


 さて、そんな彼等の敬礼を背に受け歩くアイリスは、彼等の自身の家名への忠義を信じ、そしてその心の奥底にある打算の忠心には気付かず、或いは気付かないふりをして廊下の突き当りを目指す。


 そうして、廊下を抜けた先にあった一際重厚で装飾の凝った扉をアイリスは開いた。

 その中には書類が山と積まれた大きなデスクが一つ置かれており、床には上等なウールの絨毯が敷かれている。壁には大きな絵画が一枚掛けられていて、その下にはソファもあった。

 部屋全体を淡く照らすその光は、天井に付けられたシャンデリアが降らすものである。日の光は壁に取り付けられている窓から入ってはいるが、部屋全体を明るく照らす程の量は入ってきていなかった。その窓は僅かな隙間に、波打つ水平線を映すのみである。


 ここはアイリスの執務室である。

 そして、その埃一つ無い部屋には一人、少女が佇んでいた。


 年はアイリスと同じ、或いは少し上だろうか。

 彼女は、アイリスの纏う服と意匠を同じくしながら、対照的に黒を基調としたサーコートにその豊かな身を包んでいた。

 その服は、ローズハート公爵家の本流であるヴィクトリアーナに代々仕えてきた傍流の血筋へ渡される制服である。

 そして、それとは真逆の、まるで新雪の様な、腰まで伸ばされた白銀の髪は背中で三つ編みに結われていた。


 彼女が腰に巻く剣帯に吊るされたその直剣は、実に見事な剣だった。

 幼い頃からアイリスを守るという使命を背負い、剣を振るってきた彼女の立ち振る舞いには隙が無い。


「お帰りなさいませ。アイリス様」


 そう言って彼女、側近のアナ・フローレンス=ローズハートは恭しく頭を下げながら口を開いた。


「えぇ、ただいま。……掃除、してくれたのね。いつもありがとう、アナ」


 そしてアイリスは彼女のお堅い出迎えに対し、これまでとは違う明らかに疲れを滲ませているが、それでも穏やかな微笑を浮かべながら答えた。

 その表情は、艦橋からここに来るまで一度として見せなかった物であった。

 言葉も砕けた物になっており、心なしか纏うその雰囲気も柔らかくなったような印象を受ける。

 最も、その張り詰めた様な印象が消える程では無かったが。


「いえ、当然の事をしたまでです。それが私の役割でございますので」


 アナは顔を上げて答える。その表情と声音には誇らしさの様な物が滲んでいた。

 それ以上に、壊れかけている妹に対する深い愛情と、それに起因する深い憂慮も。


 しかし、アイリスはその表情と声音に気付かない。

 彼女はそのまま、壁際のソファには目もくれず一直線にデスクへ歩みを進めると腰に差した細剣も外さずに椅子へ背筋を伸ばして座った。

 そして、その手はそのまま書類の山へと伸ばされる。

 船団の長として、彼女にはやらなければならない事が多かった。手を伸ばすその短い間に、彼女は頭の中で眼前のタスクへ優先順位を付ける。


 ──先ずは、新大陸へ到着した時に使用する入港許可証へ封をしよう。昨夜、寝落ちして忘れてしまった。それから、この船団より先んじて出港したはずの貨物船の事だ。何事も無かったのなら倉庫に物資を搬入している筈。その受領手続きで使う書類をここであらかじめ作成しておこう。あぁ、そうだ。今夜の演説の原稿も再度読み直さなければ。それが終わったら……


「アイリス様」


 ふと、アナから声がかけられた。

 アイリスが顔を上げて見てみれば、彼女は手に何かを持っている。よく見ればそれは皿だった。であればその上に乗っている物は、料理なのだろう。


「えと、それは?」

「……本日は昼餐を取られていないと、料理長より聞き及んでおります。ですので、軽食ではありますがこちらをご用意いたしました」


 そう言って、アナはデスクに皿を置く。そこに乗っていたのはサンドイッチだった。

 きっと、冷蔵室から持ってきた食材を使ったのだろう。その綺麗に作られたサンドイッチを見たアイリスは、途端に意識の外へ追いやっていた空腹を認識する。

 朝からずっと空のままだった胃袋は、眼前の食事を早く自分に入れろと、痛みに近い空腹で訴えかけてきた。


 だが。


「うん、有難う。……でも、ごめんなさい。まだやらなきゃいけない事があるから、後で食べるね」


 そう言って、アイリスは再度その手を書類へ伸ばす。そうして、書類に手が触れる寸前。


「アイリス!」


 口調を変えたアナが、右手をアイリスの伸ばした手へと重ねてきた。

 アナの右手に阻まれたアイリスの手は空を切る。


 顔を上げて見れば、いつの間にかアナの顔が眼前へずい、と寄せられていた。

 視界一杯に映るその美麗な顔に浮かんだ表情は真剣そのものである。彼女の青い瞳は、真直ぐにアイリスの赤い瞳へ向けられていた。


 そしてアイリスは、今眼前に居る人物が、従順な側近としてでは無く、幼い頃からずっと共に過ごしてきた姉として、自身に話しかけてきた事を理解した。

 こうなったアナはとても頑固である。アイリスは、このアナを幼い頃から言い包められた試しが無い。


 彼女達の血の繋がりは薄い。共にローズハートの名を背負ってはいるが、それは宗家と傍流。両親も違えば生まれた地も違った。


 けれど、姉妹である。アイリスは幼い頃から大人の膝程度の身長しかなかったアナを見てきているし、それはアナも同じであった。今は主従があるが、少なくとも幼かった当時にそれは無く、ある日飾り気のない馬車に乗ってアナが自身の館へやってきた日、同年代の友人など誰一人としていなかったアイリスはひどく喜んだものだ。


「少し、休みなさい。ここ最近ずっと無理し過ぎよ」


 そう言うアナの語気は少し強かったが、それ以上に、其処には優しさと愛情が滲んでいた。

 アイリスとて、しかと目を合わせながらこう言われて、それに気づけない程、愚かではない。


 ……それに、アナは同性のアイリスから見てもかなり美しい。そんな彼女の顔を視界一杯に映されては仕事など手に付こう筈も無い。


「わ、分かった、分かったってば! 顔、近いよ!」


 そう言ってアイリスは、慌てて顔を引く。その際彼女の背は背もたれに付き、自然とそこへ体重を預けていた。

 それを見たアナが満足気で悪戯な微笑みを浮かべたのは、きっとアイリスの見間違いではない。アナは、最初からそれを狙って顔を近づけたのだろう。


 ──やっぱり、アナには勝てないな。


 アイリスはそう思いながらアナに笑みを返して、その手を今度は書類では無くサンドイッチへ伸ばす。そうして手に取った一切れを口へ運んだ。


 美味しい。

 最近はずっと堅いビスケットに、塩辛い燻製肉の様な保存食ばかりを食べていたせいだろう。アイリスは一層そう感じた。


 そのフワフワの白いパンで挟まれた野菜はみずみずしく、鮮やかなピンク色のハムはしっとりと柔らかかった。

 中に塗られたマスタードソースがピリリとした味のアクセントを舌へ伝えてくる。


 そのサンドイッチは、昔からアイリスが好きな味付けだった。


 それを食べて、ようやくアイリスの体から力が抜ける。

 それを見たアナは内心ほっと胸を撫で下ろし、目を彼女から離した。


「コーヒーも淹れましょうか。ちょっと待っててね」

「え?い、いや、いいよそんな! アナだって疲れてるでしょう?」

「確かに、少しはね。でも貴女ほどじゃないわ。……それに私、自分の分も淹れるのよ?だからそんな目で見ないで。私が貴女にこき使われてるって、皆に勘違いされちゃうわ」


 そうして、アナはポットからカップに手慣れた様子でコーヒーを淹れていく。

 そうして湯気の立つカップを両手に彼女はデスクヘ戻ってきた。


「はい、どうぞ」

「……うん。ありがとう」


 カップを受け取るアイリスを眺めながら、アナは「どういたしまして」と返して、自身はデスクの横へ立つ。


 暫く、交わされる言葉は無かった。二人は手元のカップへと視線を落としたまま、その中へ注がれた黒い液体へ口を付ける。

 部屋には、二人がコーヒーを啜る音と、波打つ海面の音だけがしばし響いていた。

 その沈黙は、しかし二人にとっては心地良く、二人の間に流れる時間はゆったりと、穏やかな物へと変わっていく。

 

 その心地良い沈黙を破ったのは、アナがカップをデスクへ置いた音だった。

 空になったそのカップは、僅かな温もりを残し、次第にそれも冷めていく。


「……ねぇ、少し聞いても良い?」

「うん、良いよ。……どうしたの?」


 そのアナの声は、何処か躊躇いがちで強張っていた。

 彼女の目線は、窓へと向けられていた。きっと、アナは海原の水平線を眺めているのだろう。そして、今は水平線に隠れているが、いずれは見えて来るはずの新大陸も。

 そして、それを眺めるアナの目には、アイリスとは違い、不安と恐怖が入り混じった様な影が浮かんでいた。

 

「もう、私達はこの航海を始めて半年経つわ」


 それは、奇しくも先程アイリスが航海士の男へ投げかけた言葉とそっくりだった。


「この半年、いろんな事があったけれど、でも私達の旅は順調だったと思うの」


 その言葉にアイリスは首肯する。


 確かに、多くのトラブルはあった。海賊には襲われたし、疫病も蔓延しかけた。

 だが、どれもハッキリ言って大した事は無かった。

 この船に乗るのは幼い頃から剣を握らされてきた者達ばかりだ。海賊如きに遅れなど取る筈もない。そもそも、船の性能からアイリス達は彼等に勝っていた。

 病に関しても同じである。昔は恐ろしい病気であった物が、かつて起こった技術革新でいつの間にか風邪と同じくされていた。


 苦難。と、呼べなくも無いかもしれない。けれども、それでアイリス達が喪った物は殆どない。

 であれば、それらはやはり苦難足り得ないのだろう。


「だから、きっと、もうすぐ新大陸に到着するわ。そうすれば、必然的に私達は……狼達と命を懸けて戦う事になる。」


 真に苦難が待ち受けているとすれば、それはきっと、これからだ。


「ねぇ、アイリス。──貴女は、狼が怖くないの?」

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