痛挟み
「何をやってるのかしら? 桟君、立花ちゃん」
クスクスと、親指と人差し指を唇に当てて、小さく肩を揺らして笑いながら京子さんは現れた。
百合黄京子。
喫茶店『百合黄』の店主であり、立花の保護者であり、僕の恩人であり、そして、僕たちの上司。
「もしかして、体調でも悪かったのかしら。駄目ねぇ。体調を整えるのも、霊殺士の仕事の内よ。体調不良は言い訳にはなるかもしれないけれど、納得は得られない。それとも――」
カラン、カランとこちらに迫る下駄が玲瓏な音を打ち鳴らす。
流石に校内であるため自粛しているのか、いつもの煙管はもっておらず、右手と左手はどちらも和服の袂に仕舞われている。
唾を飲む。
京子さんがこうして現場に出てくることは滅多にない。
それは自身の能力が戦闘向きだからじゃないとか、単に戦闘に不向きな体だからだとかそういうことではない。むしろ戦闘能力だけなら霊殺士協会随一と言っていい。かつてはあまりの強さから、この温和そうな見た目からは想像もできない、『鬼』とまで呼ばれた程の実力者だった。
だから京子さんが戦闘行為に参加しないのは、京子さんが好まないからという、ただそれだけの単純ながら堅牢な理屈。
しかし、稀にだけど、こうして自ら京子さんが参戦してくる場合がある。
その場合というのは――
「それとも、まさか、油断、してたんじゃ無いわよねぇ?――獲物を前にして」
温かいはずの笑顔から発せられるのは、底冷えした声音。
――その場合と言うのは――上司としてリカバリーしなければならなくなった時。つまり、僕たち部下が取り返しのつかないようなミスをしてしまった時だ。
「ひ――」
そう短く悲鳴を上げたのは、僕と立花ではない。
自身を獲物と形容され、微かに覗く瞳から発せられた矛のような視線を浴び、まさに蛇に睨まれた蛙となってしまった鬼城だった。
「大した度胸よねぇ」
京子さんは徐に屈んで、臥せる鬼城の顎を、まるでキスをするかのように優しく指でつまみ上げる。
「――っ⁉」
「殺して、騙して、揚げ句の果てには逃げる。そういうの嫌いじゃないわよ。とっても人間らしい。あなたはどうやら嫌がっているみたいだけど、霊殺士、向いていると思うわ。……だけどそう思ってくれるのは、私達化け物限定よ。人間界じゃあそうじゃない。そしてここは人間界。つまり私が何を言いたいかと言うと――人間界にあなたの居場所はない」
それは、死の宣告。
霊殺士にならなければ人間界にいられないという、遠回しの死の宣告だ。
「待ってください、京子さん」
ピタリ、と僕の声に京子さんの右手が止まった。
右手には、京子さんが自身の髪をダボ型に結わえる際に用いている簪。
先端が刃になった簪が、両手を廊下についたまま後ずさりする鬼城の喉元一ミリ手前で静止していた。
「もう大丈夫です京子さん。迷惑かけてすいませんでした。だから、あとは僕に任せてくれませんか。鬼城は、友達なんです」
「…………」
京子さんは、簪はそのままに、数秒、真下から探るような目線で僕を見上げる。
が、やがて肩を竦め立ち上がると、鬼城の前から一歩引いて僕に場所を譲ってくれた。
その表情と仕草の意味するところは……ええ、分かってますよ。
「鬼城」
「八原……」
助けてもらえたことが嬉しかったのか、前に立って呼びかけると、鬼城は安心したように微笑む。
そんな鬼城に僕は更にもう一歩、彼女の前へと歩を進める。
露骨に深まる笑顔。
僕は、言った。
「何で逃げた?」
「……え?」
まるでテレビの一時停止ボタンを押した時のようだった。
石化したかの如く鬼城の顔のパーツは動かない。
が、それは笑い続けているのではなく、僕に何と言われたのか脳が理解できていないだけだ。
「答えて。鬼城。何で逃げた?」
「え、えっと、どうしたの? 八原。冗談だよね? 顔、怖いよ?」
ようやく現実に意識が戻ってきたのか、鬼城は笑顔のままぱたぱたと手と口を動かす。が、笑顔は明らかに引きつっていて、忙しくなく動く手と口からは明らかな動揺が見て取れる。
「冗談なんかじゃない。僕は何で逃げたのか。そう訊いているだけだ」
「……!」
鬼城の顔から笑顔が消えた。
代わりに現れたのは驚愕、悲しみ、落胆、そして絶望。
なんでそんな事を言うのと、痛烈な批判を込めた問いを目線だけで訴えかけてくる。
「僕は鬼城に霊殺士になれと言った。怖いのは分かる。人に嫌われたくない鬼城にとって、優しい鬼城にとって、常にこの事件の罪悪感を思い出させる霊殺士になることは、苦行でしかないだろうから。それは、分かる。けど、それは当然、鬼城が受け入れるべきことだ。なのに、逃げた。何で?」
「……だから、それが理由だよ。単に怖いから」
「違う。本当は、別の理由があるからだ」
「…………?」
鬼城は、顔を上げ、無言で続きを問うてくる。
僕は、吐き捨てるように言った。
「納得いかないんでしょ? 鬼城は自分が被害者だと、そう『思い込んでる』から」
「――――は?」
ポカン、と。
突然テレポートで知らない場所に連れてこられた人間みたいな顔で、鬼城はそう一音だけ発した。
そして、その顔に影が落ちる。
俯いたまま立ち上がり、亡霊のようにスッと僕の前に佇んだ。
「……私が、被害者だと、思い込んでる?」
口角だけを吊り上げる。蚊の鳴くような声、いや、泣くような声を漏らす。
「そうだ。人が罰を受け入れる理由は一つしかない。それは自分が犯した罪の量に罰が釣り合っていると思っている時だ。なのに鬼城はさっき逃げようとした。あれは霊殺士になるという罰が自分の犯した罪に釣り合っていないと、自分が被害者であると、鬼城が思っている証拠だ」
「……八原は、私がどれだけ苦しかったか、分かってるんだよね?」
鬼城は静かに拳を握り込んだ。握り込んだ拳と声の、どちらも震えている。
「うん」
「空手部と文化祭実行委員の間で板挟みにされて、痛みで挟まれて、辛かったことも知ってるよね?」
「うん」
「私が空手部でずっと陰口を言われてたことも」
「うん」
「私が半霊を生み出し、夜満足に眠れなかったことも!」
「うん」
「だったら、何で分かんないの!?」
見えない弓矢のような声が闇夜をどこまでも貫いた。
華奢な肩は小刻みに震える。
握り込まれた拳には青筋がいくつも浮かび上がっている。
「答えて! 私はただ、頑張ってただけなのに! 何で分かんないの八原!」
「…………!」
ぼろぼろと大粒の涙を落としながら、鬼城は僕の胸倉を掴んできた。
猛然と顔を上げ、叫びながら。
食い込んだ爪痕から流れ出る血で。真っ赤に染まった掌で。
「私が被害者じゃなくて加害者だっていうなら、教えて! 私はどうすればよかったの!? どっちかを優先すれば、もう片方からは恨まれる! どっちも頑張っても、更にそれ以上を求められて、少しでも気を抜くとこっちを疎かにしてるなんて言い出す! 私がどれだけ頑張ってるかも知らないで!」
僕のブレザーを引っ掴みグイと引き寄せ、答えを求める眼差しで一心不乱に僕を見つめてくる。
そのまま舌が千切れんばかりに、鬼城は捲し立て続けた。
「だからあいつらにも同じ苦しみを味あわせてやろうと思った……! 板挟みに遭うことの辛さを……。痛みで挟まれることの、辛さを……! ねぇ、答えてよ八原! これでも私は被害者じゃないって言えるの……? あいつらに責任が全くないって言えるの? 私は、どうすればよかったの……?」
最後の方はもう涙声で掠れて、聞き取るのが精一杯だった。顔をくしゃくしゃにして、最後には泣きじゃくり、僕の胸元に顔を押し付ける。
えっぐ……ひっぐ……と体の震えと涙と共に、嗚咽を漏らす音が寂しげに響いている。
「……たしかに、殺された奴らは被害者ってだけじゃないかもしれない。鬼城もあいつらの被害者なのかもしれない」
「……! だったら!」
「けど、鬼城は殺された奴らに一回でも言ったの? さっき僕に話してくれたような苦しみを」
「……!」
教会で天に祈るように僕を見上げる鬼城。
両肩を掴み、軽く押す。
拠り所を無くした鬼城は不安に揺れる瞳で僕を見た。
「言ってないんだね?」
「そ、それは言いにくかったし、言って嫌われたら……もっといじめられるって、そう思って……」
「嫌なのに嫌われたくなかったから言わなかった? そのせいで四人は殺されたと思わないの?」
「ち、違う! それはあいつらが――」
「違うのは鬼城だ」
無理やり言葉を遮ると、再び激高しようとした鬼城は動きを止めた。
「いい? 鬼城。鬼城は文化祭の実行委員と空手部のやつらが鬼城を痛みで挟んだ――痛挟みに追いやったと思っているかもしれないけれど、たぶんそれは違う。彼らが挟んだんじゃなくて、鬼城が抜け出そうとしなかっただけだ」
「私が……抜け出そうと?」
僕は倒れ込んでいる鬼城に告げる。
「そうだ。もし鬼城が一言でも嫌だと言ったら? そうすれば彼らも少しは考えを改めて鬼城をあんな目に遭わせることはなかったと、そうは思わないの? それに、本当に苦しいなら、誰か大切な人に相談すればよかったんだ。親とか、あとは、自意識過剰かもしれないけれど、僕とか。両親はともかく、僕は絶対に力を貸した。そうしたら鬼城はあいつらを殺さずに済んだ。なのに、何で言わなかった」
「そ、それは迷惑をかけるといけないと、思ったから……」
言い淀む鬼城に僕は半歩近づいた。
そして見下すわけでも、見上げるわけでもなく、彼女の胸倉を引っ掴み、真正面から正々堂々、告げる。
「そうだ。それができなかったから結局、鬼城が言い出さなかった怠慢であいつらは死んだんだ。鬼城の優しさのせいで死んだんだ。鬼城が被害者じゃない。彼らが加害者じゃない。彼らは被害者で、鬼城が加害者――鬼城が、殺人鬼だ」
「そん、な………」
鬼城は、言葉を無くしたように、ただ黙った。
そうして、希望を無くしたようにうなだれる。
ようやく自らが加害者だと自覚したんだろう。
だとすればあとは霊殺士となり、加害者として罪を償う罰を受けるだけ。
その罰を、僕はもう一度彼女に伝えようとする。が、その瞬間だった。
「―――」
怪獣の呻き声のような者が聞こえた。
ここにいる四人全員、声のした方を向く。
その声はさっきまでいた特別棟四階の隅の方から聞こえてきている。
……やっとか。
「来て、鬼城」
「え?」
僕は鬼城の手を取り、走ってきた連絡廊下を引き返し、再度物置の方へと戻る。
僕がこれからしようとしていることが分かっているのか、京子さんも何も言わずついてくる。三人が歩き出したことで事情を分かっていない立花もついてきた。
「ひッ……!」
音源の場所に辿りついて真っ先に声を上げたのは、鬼城だった。
漂ってくる、これ以上ないほど嗅覚を蝕む饐えた匂い。水のようにはっきりと滴り落ちるのではなく、ぼた、ぼたと何か密度の濃い液体が不気味に廊下に垂れる音。グギャア、グギャアと甲高く響く、黒板を爪でひっかいたような耳障りな声。
そこには先程同様、ガラス板に押しつぶされ、ひたすら自らの体液を垂れ流し続ける野勢君――
――ではなく、ガラス板の中には、『化け物』がいた。
――体を液状に変えて、その体液でガラス板を溶かしながら、言葉にならない雄叫びを上げ続けている野勢君の化け物が。
「京子さん、あれ……」
「さっき立花ちゃんが倒したはずの野勢君の幽霊でしょうね。さっきの一撃じゃあしとめきれなかったのか、それともこうなることを見越して、桟君は一度しか立花ちゃんに斬撃を打たせなかったのか。まぁ、おそらく後者でしょうね。鬼城さんに殺させるために、あえて生かしておいた」
刀を構え、説明を求めた立花に京子さんが何でもないことのように答える。
鬼城は僕が無理やり腕を掴んで連れて来たのに、今は逆に僕の腕にしがみつくようにして、野勢君の変わり果てた姿を怯えた目つきで見つめていた。
京子さんの言う通り、あれは野勢君の幽霊化した姿だ。
そしてわざと生かしていたのも本当。正直さっきので死んでもおかしくはないと思っていたけれど、生きてくれていて助かった。
――これで、彼女にきちんと罰を与えてやれる。
「え? な、何?」
不安げに見上げてくる鬼城を見つめ返しながら僕はゆっくりと腕を持ち上げる。そして、野勢君の幽霊の方を指差し――言った。
「鬼城。こいつを殺せ」
「―――――――は?」
それは今まで聞いてきた中で最大の疑念を含んだ「は?」だった。
まるで朝起きたら世界が無くなっていた。そんな顔。
そして――鬼城がそんな顔をした、その瞬間だった。
「……立花。どういうつもり?」
いつの間にか僕の背後に立っていた立花が、刃を僕の耳あたりに添えてきていた。
「それはこっちの台詞。その子、まだ『自分』では殺したことがないんでしょ? そんな人に、たとえ幽霊だとしても、あれを殺せるとは思えない。元クラスメイトだとしたら尚更。私が殺した方が圧倒的に早い。それとも、私じゃ不安だとでも言うつもり?」
ゆっくりで柔らかい声音なのに、添えられた刀と同じくらい鋭い言葉が飛んでくる。けど、鬼城に気を遣っているようにも聞こえるけど、なるほど、つまるところ、自分の役目を奪われるのが嫌だってところか。
「不安なわけない。むしろそっちの方が適任とさえ思う」
「なら」
「それでもだ」
僕は振り向くことなく、鬼城を見据えながら告げた。
「鬼城にはまだ罪の意識がない。霊殺士になれと告げたあの時、鬼城は逃げた。それはつまり鬼城がまだ自分が殺したんだと言う自覚、つまり、苛酷な霊殺士を引き受けざるを得ないほどの罪の意識が芽生えてなかってことだ。だったらもう、罪の意識を持ってもらう他ない。この野勢君の幽霊を殺すことで。……もし、あの時逃げなければこうするつもりはなかったんだけど」
「……!」
後ろから立花の息を呑む音が聞こえてくる。
おそらくその心の中の台詞は、『あれは、わざと逃がしたの?』だろう。僕も心の中で頷いておく。
その通りだ。
あれは僕が鬼城を試すために用いた作戦だった。
もし逃げなければそのまま霊殺士に、そして逃げればこうして幽霊化した野勢君を殺させることで『自分は醜い殺人者なんだ』という罪の意識をもってもらうための。
罪悪感というのは、人間にとってかなりの原動力だ。
鬼城が霊殺士になる理由にも、そしてこの先鬼城が霊殺士として活動していくための大きな糧にもなる。持っておいてもらって損はない。
だからこの作戦を取った。
……まぁ、この作戦には、僕がわざと鬼城を逃がした際に、京子さんが助けてくれない可能性もあったので、その点を鑑みればこの作戦は失策と言えるかもしれないけれど。
が、しかし、そこは流石京子さん。きちんと正義のヒーローの如く現れてくれた。……ヒーローと言うよりは、どちらかと言うと魔王を倒した後の裏ボス、といった感じだったけれど。
僕は、もはや喋る機能さえゴミ箱に捨てて来たのではないかと思うほど、ただ一心不乱に口を開けて僕を怯えた目つきで見つめる鬼城に一歩近寄る。
「とういうわけだ、鬼城。分かったら、さっさと殺せ」
「嘘、だよね……」
鬼城は半笑いを浮かべて、一歩後ずさる。
「嘘、なんだよね?八原? 私をからかってるんでしょ? そうなんだよね?」
「いいから早くやれ」
更に一歩後ずさり、僕が一歩近づく。
ついには泣きながら、鬼城は懇願する。
「お願い……嘘って言ってよ……私は、殺せない……」
「何言ってる。もう四人殺しただろ。四人も五人も、変わらないはずだ」
「私は殺してない……あれは、自覚のない半霊が……」
「まだ言うのか。さっきも言ったでしょ。あれは鬼城が殺したも同然だ。鬼城の怠惰が、優しさが生んだ殺人だ。それに、鬼城が生きるために選べる選択肢はもう、これしかないんだ。野勢君を殺して、霊殺士になる。それしかない。鬼城の意思は関係ない。黙って殺せ。……けど、それでも無理って言うんなら――」
僕は後ろにいた立花の刀をひったくる。そして、
「――僕が、お前を殺す」
――鬼城の髪を乱暴にひっつかみ引き寄せ、喉に刃を滑らせた。
「¬――――」
鬼城は、壊れた楽器のような声を漏らし、瞳からは大量の水分を垂れ流す。
瞳の光は失われ、僕が刀を首から離し、掴んでいた髪を離すと、まるで本当は人形だったかのようにガクンと膝から崩れ落ちた。
言動は、もうほとんどない。
ただ、時折漏れる嗚咽と、その際に肩が大きく跳ね上がるだけだ。
何が鬼城をここまで追い詰めたのか、僕の行動全てか。もしくはその中のどれかか、本当のところは、僕にもきっと分からない。
ただ、鬼城は抵抗をやめた。諦めた。
それだけは分かった。
そして、それが数十分ほど、続いた後。
「……殺せば、いいの?」
そう、俯いたまま、ぽつりと掠れがすれの声で鬼城はそう漏らした。
僕はただ、頷く。
「ああ、殺せばいい」
「殺すしか、ないの?」
「ああ」
「殺さなければ、私は八原に殺されるの?」
「ああ。僕が鬼城を殺す」
「……そう、なんだ」
「殺されたくないか?」
「うん。八原にだけは、殺されたくない……」
それは、どういう意味なのか、僕にはわからない。僕のことが死ぬほど嫌いになったから、屈辱の相手である僕に殺されるのだけはごめんなのか、それとも僕が大事な人だから、そんな人に殺されたくはないのか。確証は全くないけど、可能性が高いのは前者だろう。
そして、鬼城はゆっくりと、振り絞るように立ち上がると、
「分かった……。私は……霊殺士になる」
か細く、それだけ言った。
俯き、目元も前髪で隠れているから、どんな表情をしているかは分からない。
だけど、そう言ったのだけは確かだった。
鬼城は小さな歩幅で、僕に近づいてくると、
「けど、八原、一つだけ訊いて良い?」
額を僕の胸元に押し付けてそう問うてくる。
「なに?」
「……私がたとえ霊殺士になっても、私はこれからも人を殺すんじゃないの? 私の『痛挟み』は、今は八原達が起こしてくれたおかげで抑えが利いてるけど、これから先はどうなるか分からない。霊殺士になれば、私は人を殺さなくなるの? もしそうじゃないなら私はどうすればいい?……こんなことを考えてる私を、八原はどう思う?」
鬼城の体は、もう震えてはいなかった。それはたぶん、恐怖に打ち勝ったとか、不安がなくなったとか、そういうことではないんだろう。おそらく、全てを諦めたが故の、いうなれば開き直り。
人間ではなく魂がぬけた人形。
なら、そこに活力を与えるのが、今の僕の役目だ。
僕は髪を掴むのではなく、その上にぽんと掌を置いた。
「鬼城」
「……八原?」
「鬼城は良い奴すぎるんだよ」
「……え?」
やっと鬼城が顔を上げる。赤く腫れあがっている目元以外は、完全に真っ白だ。
「私が……良い奴?」
「ああ。……鬼城、鬼城が空手部に入ったのは、周りの部員に気を遣うためだったの?」
「え……」
「どう?」
ゆるゆると、首を振った。
「……ううん、違うよ」
「文化祭の準備は? 別の誰かのために頑張りたいから、委員長として準備を頑張ってたの?」
「……違う」
「勉強を頑張ってるのは? 他人のため?」
「違う」
「生きてるのは?」
「違う!」
「でしょ。基本行動っていうのは他人じゃなく自分のためにするものだ。なのに鬼城はいつも他人のために頑張ってた。いや、もちろんそれが悪いこととは言わない。むしろ立派なことだ。けど、そのせいで、あの四人は死んだ。だから人を殺したくないなら、鬼城はそれを止めればいいだけなんだよ。――いい奴であることを、諦めろ」
「……!」
鬼城の瞳に光が宿る。雲間から月明かりが差し、鬼城の全身を照らした。
「鬼城は良い奴過ぎるんだ。自分の幸せ以上に人の幸せを優先してしまう。けどだからこそそれが苦痛で、鬼城は自ら板の間に挟まってしまう。だから、まずは板に入らないようするんだ」
板挟みになってしまうのなら、そもそもどちらの板にも寄り添わなければいい。
そうすれば今みたいに野勢君という板を破壊する必要もなくなる。
「……けど……それだと皆離れて行かない?」
「安心して。その時は僕が一緒に居る。友達だから」
「……っ!」
「良い奴であろうとするな。もしも良い奴でありたいのなら、まず他人に良くする前に自分にとって良い奴になろう。他人の幸せのために才能を使うな。まず自分の幸せのために才能を使おう。板挟みに遭いたくないのなら、自分がしたいように生きよう。それができないようなら――きっと、鬼城は一生加害者のままだ」
「…………」
鬼城の見開いた目から雫が線となって流れた。それは中身は同じでも、種類はこれまでとは全く違う涙。つぅと両目から絶え間なく流れていく。目元だけが赤かった顔も、気が付けば頬にも朱色が差していた。
「私が、私のために生きていいの?」
「ああ」
「それができれば、私は幸せになれるの?」
「ああ」
「それができれば、私は人を殺さずに済むの?」
「ああ。鬼城が殺すのは、幽霊だけだ」
「そっか。そうなんだ。――そんな、簡単なことだったんだ」
「――私はただ、自分がしたいことを、したかっただけなんだ」
鬼城は一度頷くと、涙をそっと拭う。そしてふっと笑って僕に背を向けた。
「殺せば、いいんだよね?」
「ああ」
「殺さないと駄目?」
「ああ、駄目だ」
再び「そっか」と呟き、鬼城は薄く微笑む。そしてガラス板に向かって手をかざした。
刹那、ガラス板がゆっくりと動き出し、野勢君の姿をした幽霊を容赦なく押しつぶしていく。
幽霊も悲鳴を上げながら今までの倍以上体液を噴出する。けど、やがてそれも力尽き、野勢君の幽霊は血の花を咲かせ、嵐の如く内臓をぶちまけていった。
そんな野勢君を見ながら、鬼城は一言、
「死んで」
と口にした。
僕にはそれが、野勢君に言ったようには聞こえなかった。
ご一読ありがとうございました。




