蝶のように舞い、蜂のように刺す
「っ……!?」
鬼城が逃げたのだと気が付いたのは、彼女が駆け出して、一秒後のことだった。
一秒。
秒針が一針進むだけの刹那の時間。
が、たった一秒と言えど、あの運動神経が擬人化したような鬼城相手に一秒は遅すぎた。
「立花!」
「分かってる」
はじかれたように、遅れて僕と立花も、今現在持てる力全てを使って廊下を蹴った。
が、
「……速すぎる」
当然、追いつけるはずなどなく、面白いくらいに距離は詰らない。
そんな僕を立花が自分を棚に上げて責めてくる。
「桟、何やってんの」
「仕方ないでしょ。というか立花も同罪だからね」
「私は怪我してるもん。それにあの子、桟の友達でしょ。桟が何とかするのが道理」
「前は僕と鬼城が友達であることを嫌がってたくせに……というか、本当にまずいな」
不毛かつ、醜い言い争いをしながら、走る。
いつもならここから売り言葉に買い言葉で最終的には立花が口を利かなくなって僕が根負けするというオチに落ち着くのだけど、今回ばかりはそういうわけにもいかない。強制的に話題を打ち切る。
なぜなら、
「……鬼城の奴、手前の階段を下りなかった」
「それの、何がまずいの?」
「手前は特別棟、けど、奥の階段は一般棟だ」
「……! まさか……」
立花も気が付いたのか、怪我人であることも忘れて走る速度を更に速める。
一般棟。
そこには、ここ、書道室や美術室、視聴覚室があるような特別棟とは違って、一般の、普段僕達が授業を受けるクラスがある。
別に普通の日なら警戒する必要はない。けど、今日は文化祭前日。生徒が寝泊まりしている。つまり、鬼城がそこに入ってしまえば、霊殺士の情報をばらしてはいけない僕達は何も手出しができなくなるということだ。
「っ……! 私、どうすればいい? まだ腕は折れてるけど、斬撃くらいならまだ出せる」
「無理だ。鬼城の奴、こっちをちらちら伺いながら走ってる。立花の斬撃を警戒してる証拠だ。何であんな体勢で走ってるのに、僕たちは追いつけないんだ」
「じゃあ、どうすれば……」
「…………」
……正直、手立てがない。
鬼城が逃げ出した理由は分かってる。
けど、鬼城の性格上、それでもこの提案を呑むものと思い込んでいた。
だからこれは僕のミス。
このまま鬼城はクラスメイトに僕達のことを触れ回り、そんな不祥事を起こした僕達は協会にそのまま――
「若いっていいわねぇ」
「え――?」
そんな未来が見えかけた、その瞬間だった。
そんな、この場の空気とは180度異なった、歌うように優雅な声音が、廊下に響き渡る。
そして、
「か――は――」
自らの意思ではなく、誰かに無理やり吐き出させられたことが確実に分かる、そんな鈍い音が聞こえると、
「――――っ⁉」
目の前で、制服姿の誰かが宙に浮いた。
そのまま廊下に派手に叩きつけられ、ゴロゴロと落石の如くこっちに転がって来る。
叩きつけられた背中とは別の痛みからか、お腹を握りつぶさんばかりに抑えて、血反吐を吐きながら大きく咳き込む。
「――っ! ……ゲホッ……! ゴホッ……!」
誰あろう、鬼城空音の姿だった。
そして、現れる。
蝶のような優雅さで、蜂の針よりも危険な蹴りで鬼城の腹部を貫いた、和服姿の美人。
「何人も殺しておいて、まだ逃げる元気があるなんて」
まるで出囃子のように、カランコロンと漆塗りの下駄のメロディを奏でながら、百合黄京子が華のような笑顔を浮かべていた。
ご一読ありがとうございました。もしよろしければ次話もご覧ください。




