スリーピングビューティ
矛盾。
言わずと知れた故事成語だ。
全てを貫く最強の矛と、全てを防ぐ最強の盾。もしその矛でその盾を突いた場合どうなるのか。
結論はもちろん、矛と盾、そのどちらかが突けず、あるいは防げず、最強の矛と最強の盾などそもそも同時に存在し得ることはない。
勝者は常に一人なのに、互いに自分が相手に勝つと確信している少女二人。
そして、それぞれの武器は、種類は違えど刃と盾。
そんな、まるで衝突する運命に操られているかのようにさえ思える二人。
しかし、そんな二人が戦闘開始直後に起こした行動は相克ではなく――
「はッ!」
「…………」
――反発、だった。
『空音』は掛け声と同時にガラス板を、立花は無言で斬撃を、それぞれ繰り出すと同時に持てる最大限の脚力を以て、真後ろに飛び跳ねた。どちらも自分が接近戦よりも遠隔戦に優れているという自覚からの無意識に取った行動だ。
「速い……!」
互いに僅かな塵芥を散らしながら着地しつつ、そう微かな呻き声を上げたのは、立花だった。
先程繰り出した斬撃。
あれは一撃で『空音』を仕留めるために最大限の速さで繰り出したもののはずだった。
なのに斬撃は『空音』のガラス板、それも『空音』の体の手前ではなく、互いに後退した立花と『空音』の丁度中間の距離でガラス板と共に霧散した。
「驚いてる暇なんて、あると思ってるのかしら?」
「な……!?」
驚愕も束の間、無限とも思える数のガラス板が『空音』の右手から連続で発射された。
――飛ばせるのは、一枚だけじゃないの?
不意を突かれた形になった立花は防戦一方になる。
刀を高速で振りまくることで、飛んでくる数多のガラス板を自身の体の手前ギリギリで切り砕くも、しかしそれが精一杯。速さ故にその威力も強大で、横に避けながら斬って割ることもできそうにない。本来攻撃するためにあるはずの刃と、防御するためにあるはずの盾は、この瞬間に限っては完全に役割が逆転していた。
「くッ……!」
「あらあらどうしたの? さっきまでの威勢は?」
「うるさ、い……!」
挑発され、呻きつつも、立花は飛んでくるガラス板の僅かな間隙を見計らい、よろめいたふりをして、一つの特殊な斬撃を繰り出した。
それは――『空音』の足元へとめがけて繰り出した斬撃。
『空音』のガラス板は、縦幅も横幅も、そこそこの身長を持つ男子生徒である野勢海也の全身を押しつぶせるほどには巨大だ。故にその防御範囲もそれと同じく広大な幅。が、ガラス板には上は言わずもがな、下にも僅かにだが、廊下との隙間があった。立花はその隙間に向けて斬撃を飛ばした。
そこを突けば、『空音』の足場を文字通り切り崩せると考えたから。
だったのだが、
「甘い」
「な……!」
斬撃が直撃するかに思えた直前、その斬撃は『空音』が繰り出した、一枚のガラス板に阻まれ、ガラス板と共に消し飛んだ。
そのガラス板は――『伸びていた』。
「長さも自在ってわけ……」
「貧困な想像力ね」
笑みを浮かべる『空音』。そして再び右手を振ると、またしても、まるで人間の姿をしたマシンガンのように、正確無比に透明な板を生み出し続けていく。そしてそれを立花が砕き続けるというだけの時間が続く。
――このままじゃ、まずい……。
僅かに顔をしかめたその表情以上に、立花は深刻に心でそう感じていた。なぜなら、『空音』はただ右手をかざすだけで攻撃ができる。ガラス板の長さを変えるのもそのモーション一つで可能。そんなコスパの良い『空音』のモーションに対して、立花の攻撃モーションは大振りでひどく不効率だ。
そんな二人がこんな体力勝負をすれば、どちらが勝つかなど、火を見るよりも明らかだろう。
――……だとすれば。
立花は刀を振りながら、僅か上へ視線を向けた。そこは飛んできている、ガラス板の真上の部分だ。
――……いける。
作戦と呼ぶにはあまりにも無茶なアイディアを思いついた立花は、確信を持つと同時、刀を振り続けながら、そのタイミングが訪れるのをじっと待つ。
そして、僅かにだが、ガラス板と次のガラス板が飛んでくる間。その間がいつもより僅かに長い部分があるのを見つける。その瞬間――
「…………!」
――立花は飛んできたその二枚の内の手前の一枚。それを砕くと――残り一枚に向かって、走り出した。
「あら、自殺? つまらないわね」
あまりにもあっさりと負けを認めるような行動を起こした立花に、『空音』は侮蔑的な笑みを浮かべながらもどこか安堵の滲んだ声を漏らした。だが、そんな声さえ無視して立花はガラス板に向かって一直線につっこんでゆく。そしてガラス板が立花の全身を捉え、その華奢な肉体を余すところなく蹂躙――
「ハッ――――!」
「――はぁ!?」
――する直前。立花は、避けていた。
叫び、ガラス板の真上を。校舎の壁を蹴り、脚の筋肉の限界を超えた、ジャンプで。
普段よりも連続して飛んでくるガラス板の間が長いものを待っていたのは、ジャンプする助走をつけるためのものだった。
「っ……!」
「甘い」
ようやく絶句から解放され、跳躍した立花へと『空音』は慌ててガラス板を放つも、しかし、立花はお返しとばかりにさっきの『空音』の台詞をそのまま繰り返して、空中で打ち砕く。勢いそのままに立花はまるでミサイルのように『空音』へと距離を詰め、刀の柄を両手で握り込む。
そして放たれた斬撃は、丸腰同然になり、怯えるように両腕を顔の前へかざした『空音』の両腕を貫通し、彼女の後ろで磔になっている野勢海也同様、血の噴水として――
「なぁんて」
「カハ……!」
しかし、当然起こると思われたその未来は、『空音』の酷薄な笑みと共にかき消されて虚空へと消えた。
代わりに訪れた未来は、立花の刃を踊るように躱し、その勢いそのままに、立花のみぞおちに鮮やかすぎる程の回し蹴りを喰らわし、うめき声とも、体内から出た酸素と二酸化炭素の音とも判別のつかない音を漏らしながら、立花が廊下の窓の方へとぶっとんでいく未来。
――何で……。
と立花は自らを飛ばした原因であろう少女を空中で睨みつけながら、思う。
――いったい、何が起こった。こんな、能力は、彼女にはなかったはずだ。
しかし、その答えは、立花を蹴り飛ばした際に、『空音』が口角を上げて発した台詞ですぐに得る。
「残念。彼女は私だもの。だから、彼女の能力も、私のもの」
――! そうか、空手……!
『空音』が空手部であることは、立花は桟から聞いて知っていた。
だが、自覚のない半霊が、本体の能力の方を使ってくるとは微塵も思っていなかった。
なぜなら、自覚のない半霊は、半霊とは言いつつも、どちらかと言えば幽霊に近いはずの存在のはずだ。
幽霊は、体こそあれど、しかし、武器は基本、未練による能力だけで、生前の体を駆使して戦うことは基本ない。
そんな無意識な思い込みが、『空音』が空手の技を使ってくる可能性を立花の頭から排除してしまっていた。
「っ……!」
そんな走馬燈めいた思考も、蹴りの威力そのままに、廊下のガラス窓をぶち破った瞬間に消え失せる。
立花は体のいたるところにガラス片による擦過傷を残しながら、四階から空中へと長い白髪と靡くスカート、そして血しぶきを上げながら身を躍らせた。
この世界には抵抗がある。そのため、蹴られた方向のベクトルは時間と共に弱まる。だが、この世界には重力がある。そのため、今度はそちらのベクトルが襲い掛かってくる。
ならば、あとは校内の街灯も消え、先の見通せない闇へと真っ逆さまに落下していくだけ。
しかし、
「………」
しかし、立花は空中で一回転して体勢を整えたかと思うと、刹那、闇に向かって一度斬撃を飛ばした。下の地面から轟音が響くと同時に、斬撃を飛ばした反動で僅かに立花の体が浮き上がる。そして思いっきり手を伸ばすと、窓枠に人差し指と中指が引っ掛かった。刀を鞘にしまい、今度は両手でしっかりと掴み呼吸を整える。足を壁にかけ、摩擦を利用して、一気にジャンプし、再び、傷口から吹き出す血を雪のように舞い散らせながら、校舎内へと舞い戻った。
「……あなた、サーカス団にでも入れば?」
「残念だけど、私以上にピエロが似合う人は、他にいるから」
呆然とその様子を見つめていた『空音』が、苦笑と皮肉を交えてそう呟くと、立花は皮肉をくみ取りつつ、とある少年のことを思い浮かべながらそう返した。
「そ」
と『空音』は楽しくもなさそうに呟く。
「ま、それでも、次で終わりね。その体じゃあ、あなたは私に勝てない」
『空音』は立花の全身を見渡した。
ガラス片でビリビリに破けた制服。同じくそれらのせいでできた無数の擦過傷。そこから流れ出る大量の血。そして何より、今にも途切れそうなその呼吸。右手に持った美しい刀と、尚も爛々と輝く瞳を除いて、立花に健康な部位はどこにもない。
「どう? 一個だけ条件を呑んでくれたら、今ならまだ、見逃してあげる」
「条件?」
訊き返した立花に、『空音』は獰猛な笑みを浮かべた。
「八原桟を、諦めなさい」
「……!」
ググ、と、聞こえてくるほど、刀の柄が握り込まれる音が聞こえた。期待していた反応だったのか、『空音』は、更に笑みを深める。
「いい話でしょ? 八原桟を諦めるだけで、あなたは命が助かる。鬼城空音は八原桟と結ばれる。ほら、誰も不幸せにならない。それどころか、あなたは私の主人の恋の一番の協力者にだってなれるのよ? 誰かの一番になるなんてそうそうできることじゃない。さぁ、どうかしら? こんな出血大サービス、他にないと思うけど? ――出血したのは、どうやらあなたの方みたいだったけれど」
お返したとばかりに、『空音』はふふ、と肩を揺らした。
「…………」
立花は考える。
状況は絶望的。助けも来なければ、助けられるような人間も存在しない。いちおう奥の手中の奥の手は残っているけれど、それは、『命令違反』だから使えない。だったら、口だけ諦めたと言って見逃してもらうのが最善策。また後で、桟に相談し、作戦を練った後で、彼女を討伐すればいいだけの話。
――だけど。
立花は目を閉じ、そう心中で独り言ちる。
そして改めて、あの少年のことを考えた。
耳が、彼の声を聴きたいと求める。
目が、今はいないはずの彼の姿を映し出す。
もう一度、あのどこか安心する匂いを嗅ぎたいと思う。
舌が、彼の唇の味を覚えている。
胸の奥はボウと燃えるように、いや、焦げるように痛む。
確かに、このままだと死ぬかもしれない。死は何物をも凌駕するのかもしれない。
――だから。
――だからこそ。
「死んでもごめん」
――死んだくらいじゃあ、この気持ちは、収まらない。
「……! ……あっそ。じゃあ、死んで」
予想が違ったことに『空音』は僅かに苛立ちを覚える。が、しかしそれでもすぐに冷酷にそう告げ、右手を空中にかざし、これまでよりも長い時間をかけて生成したガラス板を、
「痛みに挟まれて死ねぇ!」
そんな『叫び』と共に立花めがけて放った。
――普通のガラス板?
飛んできたガラス板を見て、立花は心の中で首を傾げる。
長い時間をかけた割に、放出されたガラス板は一見普通のガラス板だった。速度も枚数も大きさも先程と変わらない。
ある種拍子抜けして、立花は刀を構える。そして先程と同じように斬撃を放ち、ガラス板を斬り砕いた――はずだった。
「な――!?」
ガラス板は壊れず、そのまま飛んできた。
否、壊れなかったのではない。
――一枚だけは壊したが、『その真後ろに引っ付いていたもう二枚』が壊せなかっただけだった。
「っ……!」
真正面からしかガラス板を見られなかったため、気付くのが遅れた立花は咄嗟に二回、斬撃を放った。が、焦りが斬撃にも反映されたのか、一つはガラス板に直撃するもひび割れを起こす程度にとどまり、もう一つは、立花が先程吹き飛ばされ、割られたガラス窓の方へと、つまりは明後日の方へと飛んでいってしまった。
「カ――ハ――!」
そしてガラス板はあっけなく立花に直撃し、勢いそのままに鈍い音を立てて、立花を壁へと叩きつけた。
斬撃を当てていたことで速度が僅かに緩んでいたこと、そして、叩きつけられる寸前体を反転させ、背中ではなく壁に両手をついてガラス板に挟み込まれるような形になったことから、即死はかろうじて免れたものの、間違いなく腕が折れた痛みに喘ぎを上げ、ちょうど反対側の野勢海也同様、立花もほとんど人間標本と化してしまった。
刀でガラス板を割ろうにも刀を取り出すための隙間もなく、腕力で割ろうにもガラス板が厚すぎる。どこにも逃げ場はなかった。
「甘いわね」
高慢な令嬢のような口調で呟きながら『空音』はまるでここがレッドカーペットの上であるかのような足取りで近づいてきた。
「いつ、私がガラス板を繋げられないと言ったのかしら?」
そして、立花の真後ろに立つと、じろじろと、海外の有名な絵画を鑑賞する客のように右から左にそぞろ歩きながら、押しつぶされた立花を眺めまわす。
「いいわねぇ。美少女の標本。透き通るほど白い脚。そこから伸びる太もも。ピンと反っているから、完全にはガラス板に接していない背中。滑らかさが一層伝わってくる髪の毛。僅かに覗く、悔し気に歪んだあなたの横顔。切り傷から溢れてびちゃびちゃにあなたを濡らしてる大量の血液。……でも、やっぱり標本なら」
『空音』はそこで言葉を止め、ピタ、と右手をガラス板に触れさせた。丁度、高さも横幅もガラス板の真ん中にあたる位置。そして思いっきり口角を引っ張り上げ――
「ア……アァァァァっァァァァァァァァァァァァァァっァァ――――アァ――――!」
誰も聞いたことないような悲鳴が、獣以上の咆哮が、阿鼻地獄に落ちた罪人のような咽びが、そのどれでもないかのような、それ以上の立花の叫び声が、大気を貫いた。
――『空音』がガラス板の上にもう一枚新しくガラス板を生成し、立花を上から押しつぶしたのだ。
あえて即死しないように。死に近づく痛みを味わせるために。じわりじわり、ゆっくりと。
「アハハハハハ! そうよ! これよ! 『彼女』が味わって来た痛みは! どう!? 痛いでしょう! 苦しかった! 挟まれて痛かった! 板と板の間に挟まれて痛かった! 挟まれてる私の気持なんか考えず、見ようともしないから、ほんとに痛かったあああああ!」
立花が絶叫なら自らは哄笑とでも言うように、空音は呵々と笑う。
制御できないほどの腹の痛みを左手で無理矢理抑えつけると、凄惨なまでに顔を歪めて、
「ねぇ聞こえる!? そうね!少し可哀想だから、最後の最後にチャンスを上げる! ごめんなさい私が悪かったです。八原桟は諦めますと謝罪しなさい! そうすれば、楽に殺してあげる!」
立花の絶叫で声が聞こえないことを防ぐため、笑いながら大声で話す。一旦、ガラス板を止めると、立花の絶叫も止んだ。ガラス越しでさえ荒い吐息が伝わってくる。ガラス板内は立花の汗と吐息の水分で真っ白に染まっていた。外側からでは顔は窺うことができない。
「…………ご、」
ぽつり。音が聞こえてきた。
蚊の鳴くほどの小さな音。
「ご?」
後に続くと思われる文章。それが聞けることが楽しくて、『空音』は思わず視線を曇ったガラス板に集中させ、訊き返す。
が、『空音』はそれを完全に聴き遂げるつもりはない。何故なら希望が見えた直前にそれが断ち切られた時、人間が最も絶望するからだ。
――彼女が「私が悪かったです」の「で」まで言った瞬間に、「なぁんて」と言って、ガラス板をもう一度、思いっきり前進させる。
――その時の彼女の絶望を想像するだけで、溜まらない。
「……ご、め」
喉を枯らした蚊のような声が、小さく空気を伝った。
「聞こえないわよ?」
『空音』が顔を歪めたまま、訊く。
「……ごめ、ん……」
「ちゃんと!」
「ごめん、なさい……」
「続きはぁ!?」
「ごめんさない……私が悪かった、です。八原桟は――」
「「――なぁんて」」
「――――――――は?」
その疑問文と同時に――『空音』の体は、吹き飛んだ。
「カ……ハ……!」
何かに背中が押され、立花を閉じ込めているガラス板に『空音』が激しくぶつかる。
その勢いで、『空音』が生成した新しいガラス板。そして、立花を閉じ込めていた、ひび割れたガラス板をも打ち砕いた。
「な、に……?」
ガラス板が空中に舞い散る中、かろうじて意識を取り留めた『空音』が掠れがすれに呟く。
背中に走ったあの衝撃は何だったのか。自分に何が起こったのか。「なぁんて」ともう一人、呟いたのは誰だったのか。なにひとつ、分からない。
いや、違う。それだけは、分かった。あの台詞を言った人物は――
「甘いね」
ガラス板が消え、廊下に臥す形になった『空音』の頭上からそんな皮肉が聞こえてきた。
その声は、聞き覚えがある。さっき「なぁんて」と『空音』と共に言った少女。
「いつ、私の斬撃が真っ直ぐにしか飛ばないって言ったっけ?」
間違えようがない。ムカつく言葉にムカつく声。
――千神立花だ。
「……! まさか、あの外したように見えた斬撃は……」
「その通り」
立花は刀の切っ先を、仰向けになったままの『空音』に向けた。
『空音』はその刀を見て、『あの時』の光景を思い出して、確信した。
三枚に繋がったガラス板。一枚を砕き、残り二枚があると気が付いた立花は二つ、斬撃を放っていた。
最初は二枚目に当たり、ヒビを入れ、そして、もう一つは、
「まさか、わざと……外したの? カーブをかけて、私を後ろから襲うために?」
立花は血にまみれた小さな顎をコクリと下げた。
立花の放つ斬撃の方向は直線だけではない。いわば野球の変化球の上位互換。カーブもツーシームもフォークもカットボールもシンカーもチェンジアップも自由自在。さっき見せたようなブーメランのように斬撃を戻すことも可能だ。
最初から使ってもよかったが、存外彼女にムカついたため、最後の最後に思い知らせてやることにしたのだった。
「っ……! ……いや、でもそれなら、どうして私を殺さなかったの? 私はどこも、斬られなかった」
『空音』は自らの負けを悟り、悔し気に顔を歪める。それから、問い詰めるように訊く。
『空音』が言う通り、空音の体にはどこにも切り傷がなかった。立花の言うことが本当なら、『空音』の体は背中からバッサリ斬られていてもおかしくないはずなのに。
まさか自分が彼女にしたように、彼女も自分を存分に苦しめてから殺すためにわざとみねうちで攻撃してきたのだろうか。そう、『空音』はそう考えたのだが、
「殺す? あなたを? 何で?」
「――は?」
自分が絶体絶命のピンチにあることさえ忘れてしまうほど、素っ頓狂な声が『空音』の口から洩れた。
『空音』は痛む背中のことさえ気にせず、思わず半身を起こし立花を見上げて、
「は? いや、あなた、私のことを殺しに来たんでしょう? なのに」
「え? 私は討伐って言っただけだけど? だから、今までの斬撃も全部みねうち。私的には殺してもよかったんだけど、それはしちゃ駄目って桟に言われてたから」
「…………」
もはや、言葉も出なかった。
絶句する自分を不思議そうに見下ろす立花を、空音はただ見上げる。
――思い返せば、立花が放つ斬撃を体で直接受け止めたのは、さっきの不意打ちの時一回きりだった。
――彼女の刀の軌道なんて速すぎて見えなかったから、そこから放たれる斬撃がみねうちか否かなんて判別できなかった。
――戦闘が始まる前に言っていた出血大サービスの話のくだりもただおしゃべりに付き合ってくれただけだったんだろう。
――本当は立花に自分を殺すつもりなんて、一つもなかった。
「……私は、遊ばれてただけっだってことね。何て、道化……」
呟き、自ら再び廊下に仰向けに倒れ込んで、『空音』は腕で目元を覆った。
――『私以上にピエロが似合う人がいるから』。
立花は桟のことを思って言ったのだが、『空音』は自分のことだと勝手に解釈して、空笑いを浮かべた。
「……けど、この後のことは、どうするつもり? 私は言わば、鬼城空音にとり憑いている幽霊。討伐が殺すっていう意味じゃなくて成仏って意味なら、私を成仏させるには方法は二つしかない。私が代わりに晴らそうとしている空音の未練か、もしくはそれに匹敵する望みを叶えるか。もしくは鬼城空音本体を殺すか。言っておくけれど、私は彼女の望みを教えることはないわよ。私はまだ、ここにいたいもの」
虚空を見上げたまま、『空音』は言葉だけを発する。
そう。結局のところ、『空音』を空音から取り除くためにはそのどちらかを選ばなくてはならない。そして、空音本体を殺さないとなれば、必然的にとれる方法はただ一つ。
「絶対、一回だけだからね」
「……は?」
突然意味不明なことを言い出した立花に、『空音』がキョトンと呟いた。だが、それは『空音』に向けられた言葉ではなかった。
「分かってるよ。立花」
「……!」
いつからいたのだろうか。足音さえ立てず、いつの間にか、隣で八原桟が自分の体を見下ろしていた。
「……な、何で、あなたここに……!」
「こんばんは。鬼城。いや、今は鬼城にとり憑いている幽霊みたいなものなんだっけ?」
動揺する『空音』に構わず、桟は淡々と、まるでロボットAIみたいな口調で喋る。
まるで、こうなることを想定していたみたいな声で。
――否、桟は想定していて、ここに来ていた。
「ま。どっちでもいいや、どうせすぐに君はいなくなるから」
「――え?」
『空音』がそう一言漏らすのと同時に、桟は『空音』の正面に回り込んだ。そして、立花が折れているであろうはずの両腕を使って『空音』を無理矢理持ち上げる。
その顔に、桟はぐいと自らの顔を近づけた。
「……! な、何する気!?」
「……絶対絶対一回だけだから。それ以上やったら絶対許さない。あとその後百回私にもシてくれないと絶対許さない」
「後半は検討するとして、とにかく前半は心得た」
「ちょ、ちょっと……聞きなさいよ!」
『空音』などまるでいないかのごとく何やら不穏な話を進める二人を前に、『空音』は暴れる。が、いくら立花の腕が折れているとは言っても、背骨を折られた状態で羽交い絞めにされては、抜け出すことはできない。
そして――
「それじゃ、お休み。もう一人の鬼城」
「ちょ――! っ……!」
尚もしかめ面を浮かべる立花の目の前で、桟が更に『空音』に顔を近づけていく。
そして――
――八原桟の唇がそっと『空音』の唇を覆うと、『空音』は、永遠の眠りへついた。
ご一読ありがとうございました。




