天使な悪魔
少年は、恐怖と怒りと期待という複雑な感情に苛まれていた。
「……ったく、鬼城の奴、人を呼び出すんだったら、自分から頼めってんだ。しかも、こんな夜中に」
時刻は丁度文化祭当日の土曜日を迎えた、午前零時。
誰もいない暗闇が溶けた夜の校舎を、少年はいかにも不満気と言わんばかりの声音を漏らしながら、一般棟四階にある、特別棟の物置に続く連絡廊下を歩いていた。が、その声音とは裏腹に、口角は僅かに上がり、頬も弛緩している。目的地へと向かう足取りも、文字通り浮足立っていた。
少年――野勢海也を一言で表すのなら、能天気、だった。
物事を素直に捉え、素直に言動として表す少年。それは正直者として好感を持たれることもある反面、一昨日の空音に対する『手離せないの見れば分かるだろ? 手伝ってくれよー』などの台詞からも分かるように、気が遣えない、空気が読めないと評されることもしばしば。故に繊細な感情の機微を要する恋愛においては、彼のそれを求める欲望と裏腹に、全く無縁の遠い存在として位置していた。
が、そんな状況が一変したのは、今日の放課後。いや、既に日を跨いでしまっているので昨日の放課後と言うべきだろうか。
そんなに話したこともない、というか本当に一度も話したことのない、根暗という印象しかなかったクラスメイト――八原桟から突然こう言われたのだ。
『今日の夜の十二時に鬼城が特別棟四階の物置に来てくれって。話があるみたいだよ。文化祭の準備で泊まるから行けるよね? あと、恥ずかしいからこのことは自分にも確認しないで欲しいし、あと、他の人にも絶対に言いふらさないでくれって』
いきなり何の関係も持っていなかった生徒からそんな話を聞かされたことには驚いたが、それ以上に海也が抱いた感情は驚愕ではなく、期待、だった。
いくら鈍い海也でも、そこまで丁寧に説明されれば分かる。クラスメイトの鬼城。文化祭の実行委員で同じになった鬼城空音が自分に好意を寄せていて、それを伝えるために自分を呼び出したということは。
彼女とは、文化祭の準備の際、頻繁にやりとりをしていた。海也自身は気が付いていなかったが、その間に彼女が自分に恋慕するきっかけがあったとしてもおかしくはない。いや、もしかすると、文化祭中とは言わず、もっと前から自分は彼女に好かれていたのかもしれない。……やや、その呼び出しに他人を使うことと、呼び出す時間が遅いことは不可解、というよりむしろ怒りすら覚えるが、まぁ、それも照れ隠しの一部なんだろう。そう思えば、納得もできる。それに、仮にそれを抜きにしたとしても、事実、空音に女性的魅力を感じていたのは事実なので海也に行かない理由はなかった。頻繁にやりとりしていたのも、空音から、というよりは、海也が9割方用も無いのに話しかけていただけだ。
そうして現在、野勢海也は夜の校舎に対する恐怖と鬼城空音に対する怒りと期待で、本来混ざり合うはずのない感情を内に秘め、呼び出された物置前へと向かっていた。
特別棟三階へと渡る。廊下を早歩きで進み、階段を一段飛ばしで登っていく。登り切って先を見渡すと、件の少女は、自分に背を向け、立っていた。
「……鬼城!」
彼女の姿が視界に入るや否や、思わず名前を叫んで、海也は駆けていった。その音に反応し、『空音』はまず首だけを回して振り返る。海也の姿を確認する。
そして、ゆっくりと二、三歩、海也の方へ近づいていくと――
「遅い」
「…………は?」
海也は初め、何を言われたのか、分からなかった。
何が遅いのか。自分を待っている時間が遅く感じたとか、そんな意味だろうか。だけど、そんなロマンチックな意味を込めた言葉なら、そんな、『冷め切ったような表情と声音』は使わないはずだ。
それに、『空音』の雰囲気や態度もおかしい。空音の性格は活発で明るく、誰にでも優しいという印象だ。なのに、目の前の『空音』からはそれが全く感じられない。それらを理解し、海也はやっと、その溜息混じりの言葉の意味がようやく、自分の到着時刻に対する不満だったのだと悟った。
「ふ、ふざけんな!」
海也の怒声が静寂の校舎に反響した。
普段の海也ならこれほどのことでここまで怒りを露わにすることはなかったはずだ。が、これまでの恐怖と、当初彼が『空音』に対して抱いていた期待が裏切られたことが彼にそうさせていた。しかし、そんな海也とは対照的に、『空音』は眉一つ動かさない。
「何怒ってるの?」
「お、怒るに決まってんだろ!こんな夜中に人を呼び出しといて、しかも、人伝で! なのに、『遅い』だって? いい加減にしろよ!」
海也はあくまで呼び出された側なのだ。これが海也が呼び出した側ならまだ納得がいくが、そうではない以上、海也が文句を言われる筋合いはない。むしろ海也が文句を言い、『空音』が謝罪するべき場面でさえあるはずだ。
そう。謝罪すべき場面のはずだった。
しかし、
「――なんのこと? 呼び出したのはそっちでしょ?」
しかし、本気で意味が分からないというように、空音は眉根を寄せて、そう首を傾げた。
「――は?」
燃え盛る炎のように熱くなっていた海也も、冷や水を浴びせられたように固まる。事実、呼び出したのは『空音』のはずだからだ。
「は? 何言ってんだよ? お前が俺を呼び出したんだろ? 八原経由で俺に話があるって」
「は? そうしたのはあなたの方でしょ? 今日の放課後、わざわざ八原を使って私にこの時間に来るように言ってきたじゃない」
「は?」
「は?」
同じように怪訝な表情を見せる『空音』を海也は観察する。『空音』が嘘をついている様子はない。そして『空音』が嘘をついていないのだとしたら、自分が言っていることは嘘だということになってしまう。しかし、海也は嘘をついてない。だとしたら、そこから導き出される結論は一つ。
――騙された?
自分は八原に騙されたのだろうか? 確かに、男女問わずそういう類のいじめやいじりは存在する。しかし、海也は八原と深い関係を築いてはいないし、いじめられるほどのことを八原にした覚えもない。いや、海也にとってはそんなことは、今は正直なところどうでもよかった。
なぜなら、これが八原によって作られた状況だとするなら、目の前の少女は自分に何の特別な感情も抱いていないということで――
「まぁ、でも丁度よかったわ。ちょっと都合が良すぎる気もするけれど、あなたと二人きりになりたかったのは確かだから」
「……へ?」
しかし、そんな不安も、その『空音』の一言で全て吹き飛んだ。これまでの怒りも、不安も、全て。
なぜなら、二人きりになりたいとまで言われたのだ。
これが単に『用がある』だけだったら、何かしらの事務手続き、それこそ文化祭に関する何かぐらいにしか思えなかっただろう。しかし、そうではなく『空音』はわざわざ二人きりと付け加えたのだ。その証拠に、これまで冷めきった表情をしていた彼女の顔は、今では温かい微笑みと、月光を反射するほど潤んだ瞳を湛えている。
そして、その海也の心情を見計らったように、『空音』が一歩、更に近づいてきた。
「ねぇ、野勢君」
『空音』の顔が海也の間近に迫る。
柑橘系のトリートメントの匂いが香ってくる。
澄んでいて、尚甘い囁きが耳朶を打つ。
「私ね、前からあなたのこと」
肩に手を置かれ、自分の顔の真横に『空音』の小さな顔が寄せられる。
心臓がうるさい。顔は毛穴から火が吹き出そうなほど熱い。それでも彼女から離れることはできなくて、海也は怯えるように眼をつぶり、続きの言葉を待った。
そして――
「は?」
――続きは、聞こえなかった。
「アアアアアアア“アアアアアアアア“アアアアアアアア”アアアアアア“アア”“――アアアアアアアア――!」
――野勢海也自身の、そんな悲鳴にかき消されて。
闇夜に乱反射するように、高い声、低い声、野太い声、何を言っているのか理解不能な彼の言霊が木霊する。
まるで、阿鼻地獄に落とされたような、文字通り阿鼻叫喚の悲鳴。
それもそのはず。
――彼の体は、突如どこからともなく現れた音速に迫る勢いの巨大なガラス板によって、校舎の壁に叩きつけられたのだから。
――大嫌いだったの、という『空音』の続きの台詞と共に。
「ア“ア”ア“ア”アアアアアアアアアアアアアアアアアアア“アアアアアア”アアアアアアアアアアアアアアアアーーーーーーーーーーーーーーーー!」
「アハハハハハハハハハ! どう!? その痛みは!? 『痛み』で挟まれる気分は!」
体をプレスされ、まるで全身が絞殺されるような痛みに絶叫する海也と、おそらくはガラス板が出現した原因だろう、圧殺されていく彼の眼前で右手をかざしながら、居間のテレビでバラエティ番組を見ているかのように爆笑する『空音』。
狂ったように笑いながら、歌うように彼女は続ける。
「『彼女』はこの痛みをずっと味わってきた! 『板挟み』をずっと味わって来た! 板からは抜け出せず、できるのはゆっくりと閉じていく板にじわじわ潰されていくことだけ……文化際の実行委員長と空手部という板に! いたかった……いたかった……痛かった! 今のあなたと同じように!」
「グ……ギャアアアアアアア“ア”アアアアアアアアアアアアア“”アアアアアアアアアアアアアアアア!」
もう一度、まるでテニスのフォアハンドを打つときのようなモーションで、空音が右手をかざす。するとガラス板の勢いは更に増し、ブシュブシュと、何かが潰れ液体が漏れる嫌な音と、海也のもはや人間の言葉の範疇を越えた悲鳴が混ざり合った。
「グ……ガアアア“アアア”アアアアアア“アアアア”アーー!……ア、ア……」
そして、徐々に海也の荒々しかった声音は弱々しくなっていく。張り裂けるような大きさだった音は虫の息のような、吐きだすだけの掠れた声になり、やがてそんな声音も完全に聞こえなくなる。
そして、いよいよ、彼の体は――ガラス板に閉ざされた野勢海也の体は、まるで押し葉標本のように紙同然と化し、永遠にこの壁を彩るペンキとして飾――
「なるほど。桟が言ってたのは、こういうことだったんだ」
「……!」
瞬間。そんな声が聞こえてくると同時に、最後の仕上げをしようと再び掌を振りかぶろうとしていた空音は、咄嗟にその右手を後ろの何もない空間へとかざした。
そして、何もない空間に出現したはずのガラス板は、窓から入ってくる月光を浴びつつ、一瞬でキラキラと砕け散っていった。
「ふうん。不意を突いたつもりだったんだけど、少しはやるみたいね。……けど、そっちの方があなたには不幸かも」
振り返った先には、闇があった。
だが、闇が喋っているにしては、その声は、どこまでも美しい。
「手加減、できなくなっちゃうから」
そんな銀鈴の声音と共に、闇から生まれるように、一人の人間が現れる。
反対側からの階段から登ってきたのだろう。
悪魔のような残酷な台詞に、天使のような見た目をした少女。
千神立花が、そこにいた。
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