第97章 氷室の観測
ビル群の谷間を吹き抜ける十二月の北風が、舗装路の隅に吹き寄せられた落ち葉をカラカラと乾いた音で転がしていた。
氷室は都内にある自らの小さな事務所で、手元の端末に映し出された佐伯の記事『隠蔽された防衛資産 ── 巨大プラント移管の深層と近代の「宿痾」』を静かに読み返していた。
社会を動かす大波にはならず、ただ消費され風化していくだけの膨大な情報の渦。その只中で、佐伯の投げかけた「自発的隷属のゆりかご」という刃のような問いだけが、画面の奥で冷たく冴え渡っている。
「……見事なものだな、佐伯さん」
氷室は声を出さずに呟いた。
世間が御子神という「犯人」の成敗に溜飲を下げ、霞が関が「完璧な手続きの記録」で傷口を塞ぎ終えたこの局面で、あの記事だけが構造の心臓部へ届く唯一の楔となっていた。
ともすれば陰謀論の文脈で語られがちな「誰かの悪意ある計画」などなくとも、現代社会の構造そのものが、結果として人間を「隷属」させるシステムとして完成している。隷属の本質とは、「自分で食糧を調達し、外敵と戦う能力(能動性と野生)」を奪われる代わりに、「与えられた環境で従順にしていれば、安全と小腹を満たすだけの餌が保証される」状態に置かれることだ。
「氷室さん。ちゃんと仕事してます?して下さいよ……いつも何でそうなんですか」
真奈美が自分のデスクから、じっと氷室を見つめ呆れたように言った。
「……ねえ、氷室さん」
真奈美はどこか脱力したトーンで口を開いた。
「さっきから佐伯さんの書いた『隠蔽された防衛資産』とかいうキナ臭い記事をずっと読んでは渋い顔をしてるけど。世間はもう御子神の失脚ですっかり満足して日常に戻ってるっていうのに、あなたって人は本当に救いようのない天邪鬼ですね」
氷室は画面から視線を離さず、しかし冷徹な眼光のままわずかに眉をひそめた。
「……無知とは気楽なものだな。世間が消費しているのは構造の表層に過ぎない。佐伯さんの指摘通り、現代社会の構造そのものが、結果として人間を『隷属』させるシステムとして完成している。自分で食糧を調達し、外敵と戦う能力……つまり能動性と野生を奪われる代わりに、与えられた環境で従順にしていれば安全と餌が保証される。スマホを開けば『これが正解だ』という餌が即座に与えられる。自分で因果を手繰り寄せる脳の筋肉を使わなくなることで、人間は自ら進んで家畜へと退化しているんだ」
「あー、それわかるかも」真奈美は、けろっとした顔でうなずいた。「SNSとか見てるとさ、自分で考えるのがめんどくさいからって、誰かが用意した分かりやすい正義の側に立って、みんなで一斉に誰かを叩いて『いいことした気』になってる感じのですね。考えるのを外注した家畜の楽園ってやつ?」
「……お前のその軽い口調の表現はいちいち気に食わんが、概ねそういうことだ」氷室は冷ややかに鼻を鳴らし言葉を継いだ。「具体を直視する苦痛から逃げ、抽象論や与えられた快適さに安住しようとする現代人の選択の積み重ねが、自らを隷属の地位へと貶めている。そしてその不都合な現実にすら、『誰かの陰謀だ』という分かりやすいラベルを貼ることで、無自覚な安全地帯へと逃げ帰る」
無数のアルゴリズムや「分かりやすいスローガン」に囲まれた現代。自分で事実の道筋を辿り、識見を持とうとしなくても、スマートフォンを開けば「これが正解だ」「これが皆の意見だ」という餌が即座に与えられる。自分で因果を手繰り寄せる脳の筋肉を使わなくなることで、認知の能動性は奪われていく。言葉の持つ本来の重みが失われ、ただの音や記号として消費されていくその様は、人間がみずから家畜へと退化していく証左そのものだった。飼い主が犬に呼びかける言葉に論理的な誠実さが必要ないのと同じように、言葉は「記号」へと退化していく。
「まあ、難しいこと考えなくても、とりあえずポチッとすればUberがご飯運んできてくれる現代社会は最高に快適だけど」真奈美はふふんと笑いながら「で、その話の続きがさっきぶつぶつ言ってた『西洋と東洋の文明論』につながるわけですか?なんか急にスケールがデカくなって、私の脳のCPUがまた熱を持ち始めているんですけど」
「お前のCPUは最初から省エネモードだろうが」氷室は呆れたように息を吐き、静かに視線を上げた。「……思えば、近代以前の日本人は、『世界』と『部分』を主客未分として切り離してはいなかった。自然という巨大な場との共生観が根底にあり、すべては地続きであるという安心感は、『最初から統一場の中に生きている』という無意識の前提があったからだ。西洋的な『原罪』……すなわち神に背いた個としての絶対的な汚れと分離感を抱く必要はなく、東洋には汚れを祓い、場を循環させて元の調和へと復元するという思想があった」
「あー、キリスト教の映画とか観てると、主人公がいっつも『神よ、我を許し給え…!』って勝手に一人で激しく思い詰めて自滅してるイメージのですよね」真奈美は腕を組み、妙に納得したように首を傾げた。「あれって要するに、『全体から切り離された孤独な個人』っていう西洋のパラダイム特有の生きづらさってやつですよね?」
「そうだ。現代の日本人が感じる生きづらさの多くは、まさにその分離的な世界観に毒された結果に過ぎない」氷室は低い声で続けた。「一般に西洋と東洋の分水嶺は、分断を旨とする『父性原理』と、曖昧化・包摂を旨とする『母性原理』として語られる。しかし徹底的なロゴスで近代科学を発展させた西洋にも、孤独な個の檻に抗うように中世神秘主義やロマン主義という母性のカウンターが息づいてきた。逆に、すべてを混沌へと帰して全体へ埋没しがちとされる東洋の中にも、法家思想のような厳格な統治システムや、禅のように集団から脱却して究極の個の自立を目指す思想が確実に存在した歴史的事実もあるがな」
「要するに、どっちの文明も極端に振れすぎるから、慌てて反対側のブレーキを踏み直してきたってことね」真奈美は軽く肩をすくめ話を継いでいく。
「西洋の『孤独な個の檻』も、東洋の『全体への埋没』も、結局はどっちも『自己を維持しながら他者と浸透し合う』っていう、境界線が本来持つはずの『自在性』を欠いた。同じ知性の檻の裏表ってわけだ」と氷室の口調を真似ながら、したり顔で言い放つ。
「……珍しく、要点だけは的確に捉えているな」
氷室がわずかに含羞みながら目を細めてそう言うと、真奈美は「失礼ね、これでも伊達にあなたの面倒を見てないわよ」とふふんと胸を張った。
窓の外では、十二月の冷たい北風がビル群の谷間を吹き抜け、行き交う人々のコートの裾を容赦なく揺らしている。
何かが劇的に変わったわけでも、変わらなかったわけでもない。全ては在るがままに、世界という巨大なシステムは、今日も冷徹に、そして淡々と巡り続けていた。




