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『東京インバージョン』I  作者: Moon


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第98章 おばあさんからの手紙

コンクリートの街並みを削るように吹く荒涼とした寒風を背に、氷室が都内にある自らの小さな事務所のドアを押すと、カウベルの乾いた音が響いた。

「あ、氷室さん。ちょうど良かった」

デスクに向かっていた真奈美が振り返り、卓上に置かれた小ぶりの段ボール箱を指差した。

「さっき、地方から小包が届いたんですよ。宛名は氷室さんなんですけど、……気になっちゃって、先に開けちゃいました」

悪びれもせず言う真奈美。箱の蓋は既にきれいに開けられており、中からは丁寧に包装された地元の素朴な和菓子の箱と、一枚の便箋が覗いていた。真奈美は嬉しそうに和菓子のパッケージを撫でながら、悪戯っぽく口元を緩めた。

「美味しそうなお菓子!……ねえ、これってまさか、彼女からの贈り物ですか? 嫌だなあ、冷たい顔して意外と隅に置けないんだから」

「からかうな。……前に地方の街で、道を尋ねられただけのおばあさんだよ」

氷室は苦笑しながらコートを脱ぎ、ハンガーに掛けた。真奈美は「またまた〜」と肩をすくめながら菓子折りを給湯室へ運び、手元に残った手紙を氷室へ差し出した。

氷室はデスクの椅子に腰掛け、手渡された便箋を静かに開いた。縦書きの少し震えた文字が、目に飛び込んでくる。

拝啓

あの節は、右も左も分からない迷路のような街で、すっかり途方に暮れていた私に温かくお声をかけてくださり、本当にありがとうございました。

不慣れな街の片隅で心細かった私に、嫌な顔ひとつせず、夕暮れまで一緒に歩いてくださった氷室さんの優しさに、心から感謝しております。

年をとるにつれ、私の頭からは大切な思い出や言葉が一つひとつ零れ落ちて、自分がどこにいるのかも分かっていないような恐怖がありました。

けれどあの日、冷たい人混みの中で迷子になった私に付き添って歩いてくださった氷室さんの温もりを通じて、ハッと「我に返る」ことができたのです。

自分は決して一人ではなく、温かな世界の中に生かされていたのだということを、ふと思い出しました。

人はきっと、一度大切なものを「忘却」し、迷子になって孤独や怖さを経験しなければ、本当に大切なものの価値や温もりには気づけないのかもしれません。

あのアダムとイブの涙も、ヨハネの絶望の涙も、放蕩息子が味わった孤独も……魂がもう一度「本当の自分」や「温かな故郷」を思い出し、そこへ回帰していくために、どうしても必要なものだったのだと今なら分かります。

記憶はこれから先も、少しずつ遠のいていくかもしれません。けれど、あの教会の廃墟の前で一緒に空を見上げた時間は、私にとって生涯の宝物です。

冷え込む季節となりましたゆえ、お体に気をつけてお過ごしください。

敬具

手紙を読み進めるにつれ、氷室の唇からふっと笑みがこぼれた。

――放蕩息子の帰還、か。

おばあさんが綴った「我に返る」という素朴な言葉が、彼の脳裏で聖書の景色と重なった。父親の慈愛も己の尊厳も忘れ、遠い国でどん底に落ちた息子が、ふと我に返って故郷へ足を向ける、あの物語。

楽園を追われた者の涙も、絶望も、そしてこのおばあさんが味わっている忘却の恐怖すらも、すべては魂が「本当の場所」へ回帰していくための必然のプロセスだったのではないか。

あの街の夕暮れ、廃墟の教会の前でおばあさんと佇んでいた瞬間こそが、今思えば潮目の変わり目だったのだ。今更ながらそれに気づいた自分が、我ながら情けなかった。

「相場師として半人前だな……」

すべては必然であり、見えていなかった因果の糸が、静かに結ばれていくのを肌で感じていた。

氷室の静かな感情の余韻が、さらなる思索の糸を紡いでいく。

原罪という名の「分断の檻」と、忘却と回帰。

「回帰とは、過去への退行ではない」

「見る(観察する)」という行為そのものに善悪があるのではない。それを観測した人間が、その後どう考え、どのような立ち位置を選び、どう振る舞うか――保身に走るのか、我がこととして引き受けるのか――という姿勢にこそ、原罪の意味のすべてが懸かっている。

氷室は手紙を静かに折りたたみ、苦笑した。

「やれやれ……また砂場から一からやり直しだな」

口元を綻ばせながら呟く。

しかしその視線はすでに、世界の構造そのものへと向けられていた。先日目にした若木の、幾何学的な枝葉の広がりがふと脳裏をよぎる。

「……あ、そうだ」

端末を開いて検索を始める。画面をスクロールさせ、注意深くメモを取りながら、思考の網の目を高速で編み上げていく。

細胞膜は、内と外を明確に区別しながらも、完全に遮断はしない。必要な栄養を取り込み、不要なものを排出する「半透膜(選択的透過性)」として、常に外の世界と動的な循環を続ける。

つまり、境界線をただの壁ではなく「細胞膜」として作用させるということは、システムを「人間を閉じ込める檻」から、「人間が世界と生身で対話するための、柔軟な代謝システム」へと書き換えることが出来るということだ。

「やはりな、成る程……」

細胞膜が物質の流動を担保しながら自己の輪郭を維持するように、全体と部分も、自己と他者も、西洋と東洋もまた、絶えざる相互浸透の界面においてのみ成立する。これこそが、分断なき動態を記述する新たなシステム論だ。そうか、この統一場の視点を用いれば――。

「……インタフェースと鏡面の機能を一体化させて、そこに体幹と正中線、さらに身体と心の作用を重ね合わせたら……。ん?」

氷室は突然、思い立ったように言った。

「おい真奈美、ちょっとそこに立ってくれ」

「えー、何ですか?」

「いいから早く」

せき立てながら、氷室は手近な古新聞や広告チラシをいくつか球状に丸め始める。

「……ちゃんと仕事してくださいよ」

真奈美は面倒くさそうにボヤきながら、部屋の中央に立った。

「身体と心の関係の実験だ。いいか、身体と心は相応の関係にある。つまり、身体の機能は心の働きと同じってことだ」

「心と身体……えー、何ですかそれ?」

怪訝そうな視線を送る真奈美の前で、氷室は紙屑の塊を手に持った。

「いいか、俺がこれを投げるから避けてみろ」

「避ける? 投げたやつを避ければいいんですか。私、こう見えても運動神経は――」

言い終わるより早く、紙屑が飛んだ。

「簡単ですよっ!」

真奈美はいとも鮮やかにかわしてみせる。その後も、氷室が立て続けに投げる紙屑を、軽い身のこなしで全てかわした。

「でしょ。簡単ですよ、こんなの」

ふふんと自慢げに鼻を鳴らす真奈美。

「そうだな、大したものだ」

氷室はぽつりと呟き、急に声を落とした。

「でもなぁ、真奈美は少し頭脳の出来がなぁ……。その上、どうにも口うるさい」

「えっ、何ですかそれ! 急に何言ってるんですか? 人にこんなことさせておいて、いくら何でも失礼じゃないですか!」

突然の理不尽な侮辱に、真奈美は一瞬で頭に血を上らせる。

「ん、確かにな。狙い通りだ」

氷室は満足げに頷いた。

「ちょっと……な、何なんですか、氷室さん」

「なぁ、真奈美。お前は飛んできた紙屑は綺麗に避けられた。だけど、俺が投げかけた言葉の刃から、お前の心はかわすことが出来なかったな」

「え……?」

真奈美は呆然としたまま、氷室の言葉の意味をしばらく咀嚼できずにいた。

「身体で出来る事が心のレベルでは機能していない。つまり心体がバラバラな関係性において生ずる、機能の認知不全や思考停止。それら様々な要因としての一つの実例だ」

「如何に人間は精神や心に盲目的であるか。物事への本質的な乖離を招く最たるものだな」

氷室はブツブツと独白しながら、また自身の思考へ没頭していく。

「いやでも……確かに言われてみれば……」

真奈美も、今のはただの嫌がらせではなく、何かの実験だったのだと気づき、解ったような判らないような面持ちで氷室に問いただす。

「何ですかこれ、また何かの調査ですか?」

「インバージョンだよ」

氷室の言葉に、真奈美は不審そうな視線を向けたが、やがていつものことかと興味を失ったように自分の仕事に戻った。

窓の外には、雲ひとつない青空が広がっていた。その青は、彼の心の奥底にある、決して届くことのない静かな「彼方」さえもすべて包み込んでいくようだった。

氷室は窓外の眩しさに少しだけ目を細め、そっと息を吐き出す。どこまでも広がる虚空は、冷徹な彼の横顔を優しく、そしてどこか寂しげに照らし出していた。

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