第94章 直人の残存
早朝の冷気が漂う秘書官室で、直人はすでにPCの青白い画面に向かい、絶え間なく押し寄せる各部署からの調整要請と格闘していた。
出社途中の売店で買い求めた朝刊の一面には、佐伯の手による特大の告発記事『隠蔽された防衛資産 ── 巨大プラント移管の深層と近代の「宿痾」』が躍っていた。150年の歪み、自発的隷属のゆりかご、システムの家畜化――そこに刻まれた言葉の一つひとつは、直人の胸の奥を鋭く刺し、息を詰まらせるほどの迫力を持っていた。
だが、デスクの上に広げられたその紙面をじっくり読み返す余裕など、今の直人には一秒たりとも与えられていなかった。
「直人、昨日の南西ブロックの紐付けエラー、主計局から承認督促が来てるぞ。余計な差し戻しなんか要求せず、秘書官権限で速やかに例外承認を出せ。今日中に本省の承認印を揃えないと、来期の執行計画が丸ごと凍結する」
室内に入ってきた上司から、苛立った声が飛ぶ。
佐伯の記事が投げかけた「人間性の喪失」や「根源的な問い」がどれほど社会の深部を揺さぶろうとも、この霞が関で刻々と迫る処理期限や、政務ラインが求める無感情な決裁指示が止まることはない。
直人は端末上の画面を見つめた。
画面に並ぶのは、現場から「例外承認」を求めて上がってきた0.3%の不整合データと、大正期の例外規定から続く無数の「辻褄合わせ」の履歴だった。
現場が不整合を覆い隠すために上げた申請に対し、秘書官が「問題なし」と承認を出せば、システムは再び何事もなかったかのように動き出す。
それは、佐伯の言葉を借りるなら、まさに「政治的調整という名の正解を出し、家畜としてシステムを回し続けるための単純作業」にほかならなかった。
「……この0.3%は、現場の誤差ではありません」
直人は、上司に向かってはっきりと声を絞り出した。
「百年前からの歪みです。今ここで秘書官室が飲み込めば、また次の世代へ先送りされる。正式に差し戻し、閣議前の統括会議へ上程すべきです」
上司は呆れたように眉をひそめ、冷たく言い放った。
「バカなことを言うな。お前一人が青臭い異論を唱えたところで、もう全体の発注ラインは動いてるんだよ。判を押さなければお前の首が飛ぶだけだ」
直人は机の端を強く握り締め、画面上の赤いエラー表示を見つめ直した。
御子神という個人の黒幕が切り捨てられようと、佐伯が構造の闇を白日のもとに晒そうと、この目の前にあるシステムそのものは何一つ壊れていない。それどころか、歪みを抱えたまま、秘書官室での形式的な承認処理を飲み込んで、ますます巨大に、自律的に動き続けている。
どれほど問いを突きつけられても、上層部やシステムは直人の差し戻し要求を無視し、処理を進めていく。それでも、自分だけはこの場所で「差し戻すべきだ」と声を上げ続けることをやめられない。
だが、直人の意図を無視し、他部署の強硬な操作によって、無機質な青い『処理完了』の文字が画面に浮かび上がった。直人は小さく、冷たい息を吐いた。自分がいくら異を唱えても、システムは勝手に動き、歪みを飲み込んでいく。その圧倒的な現実のなかで、ただ自分の差し戻しの声だけが、虚しく秘書官室の空気に残存していた。




