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『東京インバージョン』I  作者: Moon


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第92章 如月の見直し

深夜の合同庁舎。

特別査察室の静まり返った部屋には、空調の低い音だけが残っていた。

壁際のモニターでは、昨日プレスセンターで発表された一部記録の公開についての報道番組が、静かに解説テロップを流している。世間は一人の「悪人」の逮捕疑惑に湧き立ち、スキャンダルの幕引きへ向けて安堵の熱気の中にいた。

如月は画面を見なかった。

彼女の視線は、手元の端末上に展開された膨大な人事再配置と資金流出入のアーカイブデータだけに向けられていた。

乾から出されていた指示は、今回も短く簡潔だった。

――今日中に事後処理の帳尻を合わせろ。

乾が組織の延命のために人を「切る」刃であったとするなら、自分は人事や適正評価という客観的指針を用いて、人を「数値として無機質に分類し、処理する」物差しだった。

主要事業者に関する受託業務の、人員配置および実施体制の調整リスト。かつて如月が淡々と枠線を引き、減員や再編の対象として現場から何かを削ぎ落としていったあのデータが、処理済みの過去ログとして並んでいる。

受託企業側から提出されたそのデータの中で、とある受託企業のコード欄、そして大正十年の例外規定が紐付けられたあの項目の前で、如月の指が止まった。

画面に並ぶのは、基準値からわずかに外れた実績の数字と、それによって弾き出されていった無数のコード列だ。

あの時、自分は「再検討を求めれば明日の朝の会議に間に合わない」という理由で、乾の指示通りに淡々と枠線を引いた。書類の端に指を置き、紙のわずかな凹凸に触れながら、自ら思考を止めてペンを走らせたのだ。その枠線が、そのまま現場の人間性を締め付ける圧力となって降りていくことを知りながら。

あの頃の自分は、指示に従い仕様書通りの正解を出す「安全な歯車」として自分を納得させようとしていた。しかし、乾が刃を振るって人間を切り捨てるのと、自分が冷徹に「計量」して人間を数値へと解体するのは、本質においてまったく同じ行為だったのだ。

如月は端末のキーボードへ手を置いた。

すでに「処理済み・確定」の暗いフラグが立てられているファイルを開くと、「変更不可:既決文書です」という警告ダイアログが赤く点滅した。

如月はその警告を無視し、保護ロックを解除する。

かつて大学の法学部の教室で教授が言っていた「法は、現場のためにある」という言葉。そして、あの日自宅の窓から見下ろした無機質な東京の夜景と、「……これで、いいんでしょうか」という自分の小さな呟き。

あの暗闇の問いに、今度こそ自分の意志で答えを出す時だった。

如月はその赤い警告光を真っ直ぐに見つめたまま、ペンではなくキーボードを叩き、初めて自らの手で「再調査・要見直し」のコマンドを打ち込んだ。

画面上の数値が揺れ、システムのエラーを警告する電子音が小さく鳴る。

ファイルを閉じると、静かな部屋に乾いた音が響いた。

如月は立ち上がり、ガラスに映る自分の顔を静かに見つめた。襟を整え、部屋を出る。

一人でエレベーターホールへ向かう通路。足元から響く靴音は、かつてのように自分を安全な場所へ逃がすための足音ではなく、自らの足で立ち直った人間の静かな響きを持っていた。

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