第90章 乾の切り分け
官邸の奥深く、重厚なセキュリティに守られた内閣総理大臣執務室のデスクで、乾は手元のタブレット端末に映し出された一枚の相関図を冷ややかに見つめていた。
画面の中心には「御子神」の名前があり、そこから幾重もの太い矢印が東亜重機や各省庁の官僚たち、さらには防衛関連の特例ファンドへと伸びている。しかし、その矢印の多くはすでに淡いグレーに変わり、御子神という個人の周囲だけが濃い赤のスポットライトで照らし出されるように、視覚的な切り離しが進んでいた。
連日の報道によって世間の怒りは御子神個人へと完全に収束している。政権の根幹、あるいは現行システムの心臓部である防衛インフラの再編スキームそのものに火の粉が及ぶことは、辛うじて防がれていた。
「……よく育った膿瘍は、一箇所で綺麗に切除するのが一番だな」
乾は独り言のように呟き、手元の端末を軽くスワイプした。
「国家の安全保障のため」「組織の秩序を守るため」――霞が関の回廊や永田町の奥でどれほど美辞麗句を並べ立てようとも、その実態が、自分たちの特権とシステムの無謬性を守るための都合の良い免罪符にすぎないことなど、乾は百も承知だった。そうした大義の名を借りた偽善は、根本的な矛盾に直面するたびに問題を都合よく隠蔽し、不都合な真実を未来の世代へと先送りするだけの巧妙な装置として機能してきた。
かつて自分を引き上げた男であり、霞が関の深部と民間市場を繋ぐ極めて有能な触媒だった御子神保一。この国家の歪みきった構造を維持するための特異点として重用してきたが、その存在がシステム全体を脅かす過剰な熱を持ち始めた今、システムを守るためには、その特異点ごと切り捨てるほかに道はない。
そして、その冷酷なシステムの刃が、いつの日か役割を終えた自分自身に向けられるであろうことも、乾には容易に想像がついていた。政治とは、他者を削ぎ落しながら、自らが削ぎ落とされる順番を待つゲームにすぎない。御子神の末路は、いずれ訪れる乾自身の未来の縮図でもあった。だが、その報いが自身に及ぶことすら、乾はとうに覚悟を決めて受け入れている。
乾はセキュリティがかかった専用回線の受話器を手に取り、低い声で側近に指示を飛ばした。
「検察の動きはどうだ?……そうか。あくまで個人の不正融資とコンプライアンス違反の枠内に収めるよう、法務とのラインをしっかり抑えておけ。これ以上の余計な波及は、国家の安全保障上の観点からも許容できない」
受話器を置き、乾は窓の外に広がる永田町の夜景へと目を向けた。
その背後で、総理秘書官である息子の直人が、静かに書類を整えている。財務省主計局から官邸に入り、最高権力の頂点に立つ父と、現場の辻褄合わせに摩耗する息子の間の溝は埋まらない。
「乾総理、次の閣議資料です」
親子の情を一切交わさない、壁の向こうから響くような無機質な声だった。
テレビの向こうで人々がどれほど「悪人の逮捕」に溜飲を下げようとも、この国家の構造そのものは微塵も揺らいでいない。御子神という一人の男をスケープゴートとして差し出すことで、システムは今日も何食わぬ顔で自己の肥大化を続けていく。冷徹な政治的決断という名の「切除」は、静かに完了しようとしていた。
場面は変わり、官邸の秘書官室。
窓の外の闇が深まるなかで、直人は手元の端末に表示された膨大なトランザクションログを凝視していた。
上層部から下りてきた「処理の強行」と「例外の隠蔽」を求める無機質な指示の数々。その中に紛れ込んだ、数週間前に自分が通したあの「0.3%のズレ」の名残が、今や別の部署の処理を根幹から狂わせる淀のように、画面の端で点滅していた。
ここですべてを黙認し、いつものように上の決裁箱へ書類を滑り込ませれば、自分のキャリアも、組織全体のスケジュールも平穏無事に保たれる。
だが、直人はマウスを握る手を止め、震える指先でその該当項目の上にカーソルを合わせると、かつて父・乾に教えられた合理性を振り払うように、初めて「差し戻し」のボタンへと力を込めた。
それはシステムを救うことも、誰かを救うこともない、ただの無様な足掻きに過ぎなかった。しかし、その小さなクリック音は、音もなく回り続ける巨大な歯車のなかで、微かな摩擦音となって静かに響いた。




