第89章 御子神の孤立
千代田区の雑居ビル街の片隅に位置する、御子神の個人事務所。
重厚なカーテンが下ろされた薄暗い室内の窓から、御子神は街頭を静かに見下ろしていた。通りに設置された街頭ビジョンの大型画面には、いまも「御子神保一・疑惑の全貌」という見出しが躍り、ビルを取り囲む報道陣のカメラが光を反射させている。
世間が一人の「悪徳フィクサー」の吊るし上げに熱狂しているその裏で、御子神の身に起きていたのは、もっと静かで、途方もなく冷酷な「絶縁」だった。
デスクの上に置かれたスマートフォンは、昨日からパタリと鳴りを潜めている。
かつて毎日のように接触を求めてきた東亜重機の幹部たち、防衛省の元高官、そして海外ファンドの日本代理人たち。彼らとの回線は、切断されたのではない。相手が「組織の保身」という絶対的な論理に従い、御子神という存在を静かに遮断し、視界から消し去り始めていた。
「……見事な手際だな」
御子神は自嘲気味に呟き、冷めたお茶に手を伸ばした。
卓上には、数時間前に東亜重機の法務部門からFAXで送られてきたプレスリリースの写しが虚しく置かれている。
彼らがこれまで行ってきたすべての資産移管や契約調整において、実質的な道筋をつけたのは他ならぬ御子神自身だった。だが、スキャンダルが爆発し、世間の怒りの矛先が定まるやいなや、東亜重機は「一切の処理は御子神氏個人の諮問および提案に基づくものであり、当社としてはコンプライアンスに則った正当な業務委託の範囲内と認識していた」という公式見解を速やかに作成し、関係各所へ回覧させていた。
誰も直接的に御子神を攻撃したわけではない。ただ、自社を守るための「客観的な事実」として、すべての責任の重心を御子神という一個人へと寄せ集めていったのだ。
彼らはみな、自社が定めた内規に従い、法務の適法評価という免罪符をあらかじめ用意したうえで御子神を利用していた。だからこそ、危機が訪れた瞬間、御子神だけが「制度の外側の存在」として切り離され、荒野へ放り出される。
それは個人の裏切りや不義理というよりも、この巨大な官民複合システムそのものが備えている「自己防衛のアルゴリズム」の作動だった。
システム本体に致命傷が及ぶのを防ぐため、機能しなくなった端末を自律的にパージする。その無機質な防衛反応の前に、御子神が長年かけて築き上げてきた政治的影響力も、闇の調整役としての威容も、脆くも瓦解していった。
誰一人として、御子神に面と向かって拒絶を突きつけた者はいない。ただ「誰も連絡を取らず、誰も保護しない」という無言の合意だけが、完璧な制度的冷淡さをもって御子神を包み込んでいた。
広すぎる事務所の暗がりの中に、御子神の影だけがぽつりと落ちていた。




