第88章 関谷の限界
検察庁の地下にある取調室の並びから少し離れた、給湯室兼用記録保管庫の暗がり。関谷は蛍光灯のチラつきの下で、手元に蓄積された捜査資料の分厚い束に指を添えていた。
世間ではスキャンダルの報道が加熱の一途をたどり、ワイドショーは連日のように「捜査の刃がどこまで迫るか」「御子神逮捕秒読み」と声高に煽り立てている。ネットや週刊誌もまた、一人の「悪徳フィクサー」の罪状を数え上げ、厳罰を求めて激しい糾弾を続けていた。
だが、関谷の手元にある現実の捜査資料が物語っているのは、それらの威勢のいい熱狂とはかけ離れた、冷酷で強固な壁だった。
「状況証拠や接触の記録は揃っている。……だが、立件を裏付ける決定的な証拠が不足している」
関谷は苦い唾を飲み込み、掠れた声で呟いた。
御子神が関係したとされる数多の処理ログ、防衛省や海外ファンドとの連絡記録、そして複雑に入り組んだ資金移動の軌跡。どれもが御子神という個人の存在を強く匂わせている。だが、どの文書の末尾を見ても、御子神本人の直筆サインや、明確な違法指示の言葉は残されていない。
残っているのはすべて、「現場からの強い要請に基づく調整」「制度上の例外規定に則った円滑な資産移管」「正当な委託業務への対価」という、法令と内規の形式を完璧に満たした名目ばかりだった。
御子神がやったのは、自ら直接的な違反を冒すことではない。システムが抱える不整合と「誰の責任でもない余白」の存在を指し示し、そこに組織の人間たちが自発的に配慮し、書類を作成・処理していく流れを作っただけだ。
「これでは、個々の取引と特定の犯罪行為を結び付ける事実や、御子神の故意・具体的な関与を裏付ける証拠が不足している。検察として起訴に踏み切るための証拠が足りんのだ……」
関谷の指先が、照合票の端を強く握りしめた。
捜査線上に浮かび上がるのは、悪意に満ちた一人の大犯人の姿ではない。
ただ自分たちの保身と前例踏襲のためにハンコを押し続けた無数の官僚たちと、その無自覚な加担の連鎖によって完成された、巨大な「免責の構造」そのものだった。
一個人の犯罪として立件し、断罪することの限界。
関谷は静かに眼鏡を外し、疲弊した目頭を強く押さえた。
世間がどれほど快刀乱麻の解決を望もうと、刑事訴訟法という既存の網の目は、この国家の深部に根を張る「構造の病」を前にして、虚しくすり抜けていくばかりだった。




