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『東京インバージョン』I  作者: Moon


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第87章 構造悪とイデオロギー

深夜の静まり返った自室。

デスクのスタンドライトの明かりが、ノートパソコンの青白い画面と、その脇に置かれた黒い表紙のメモ帳を冷徹に照らし出している。

氷室は画面に映し出されたテキスト――「大罪から国家の基盤へ:西洋経済史における金融のロンダリングと利息の再定義」と題された論考の数々に素早く目を通していた。万年筆の軸を指先で器用に回しながら、口元に微かな嘲笑を浮かべる。

『ヴェニスの商人』のシャイロックを引き合いに出し、中世キリスト教社会において「最も卑しく忌み嫌われる大罪」であった高利貸し(Usury)の歴史を滔々と語る文章。そこには、十二〜十四世紀のヴェネツィアが為替手形や複式簿記、そして国債の発行によって、その「卑しい大罪」を近代的で洗練された「金融」へとロンダリングしてみせた鮮やかなプロセスが手際よく整理されていた。

「為替手形による実質利息の隠蔽、複式簿記による富の客観化、そして国家による公債の認可……くすりとさせるほどに見事な偽善のイノベーションだな」

氷室は鼻で笑い、画面をスクロールする。

さらに読み進めれば、十六世紀のカルヴァンによる宗教改革が「事業のための利息」を公認し、Usury(高利貸し)という言葉の定義を「違法な暴利」へと狭め、正当な利息をInterest(対価・補償)と言い換えることで、キリスト教圏が自らの自己矛盾を巧みに棚上げしてきた歴史が踊っていた。

「聖書の愛と慈悲を説きながら、複利の自己増殖を世界の絶対ルールに据え置くダブルスタンダード……。人間とはつくづく、自らの欲望に合わせて神の教義すら書き換える天才だ」

氷室はブラウザを閉じ、暗闇の中に漂う思考の糸を手繰り寄せる。先ほどから脳裏を駆け巡るこの歴史の重層と、現代社会を貫く巨大なアルゴリズムの整合性を睨みつけていた。

ヴェネツィアの商人が為替手形や国債で成し遂げた「大罪のロンダリング」。宗教改革がもたらした「利息の公認」。

それらを「持たざる者に流動性を与えるリスクテイクのエンジン」として美化し、あるいは逆に「富を自動濃縮する数理的な吸引機」と断じることなど容易い。だが、そんな二項対立に逃げ込むこと自体が、歴史の複雑な網の目から目を背けた傲慢にすぎなかった。市場の自律的流動性を否定し、国家統制による計画経済の実験がどういう地獄を現出したかを見れば、システムそのものを悪と断じて共産主義的な全体主義へ回帰するなど論外だ。どんな極限の形態であれ、人間は常に「欲望と生存の恐怖」を駆動源にしてきたに過ぎない。

「すべてはシステムの構造的欠陥、というわけか」

学校のいじめも、国家の膨大な財政赤字も、すべての責任を「巨大なシステムの構造的欠陥」に帰結させる。それは一見して知的な達観のようでありながら、裏を返せば、政治の不作為や、そこで選択を誤り続けてきた個人の倫理――つまり「人間の責任」を免罪するための、あまりにもナイーブな決定論だったのではないか。

全体と部分の境界が、深夜の暗闇の中で急速に融解していく。

氷室は苦渋の表情を浮かべて万年筆を置き、黒い表紙のメモ帳の新たなページに、自らの血肉を絞り出すように書き付ける。

――『原罪から派生した宿痾の正体とは、人間が自らの手で作り上げたシステムに依存し、その維持と繁栄のために他者を踏みつけることをハードコードとして選んだ業そのものである。自らの生存と安心という欲望を正当化するため、構造的な不正義を不可逆なものとして幾重にも隠蔽し続ける――この「忘却と自己目的化の無限ループ」こそが、人類が歴史の黎明期から身体の深部にまで刻み込んできた、決して治癒し得ない根源的疾患にほかならない。

そして、本来は生命の循環と均衡を保つための生態的システムに過ぎない「弱肉強食」を、人間は自らの無制限な搾取と支配を肯定するための免罪符へと歪めて捏造した。そのすり替えられたドグマが資本経済の本質を蝕み、人類は自作自演のイデオロギーという悪夢に今も縛られ続けている。』

文字に刻み込んだその冷徹な規定は、この文明の底に巣食う業の深さを容赦なく暴き出していた。

だが、書き終えた氷室はメモを睨みつけながら、自嘲気味に言葉を吐き捨てた。

「これぞリヴァイアサンだな。意志、倫理、責任。そんな個人の持ち札だけで、この巨大な怪物を解体できるなどと本気で思えるわけがない」

喉の奥から乾いた音が漏れた。

「まあ、これは見事としか言いようがないな」

近代社会を生きる個々の人間は、皆それぞれの立脚点で、生き残るための「部分の最適解」を選択しているに過ぎない。投資家は利益を最大化し、労働者は少しでも高い賃金を求め、官僚は組織の防衛を図る。誰もが正しく、誰もが悪意など持っていない。しかし、その「部分の最適解」をどれほど精緻に足し合わせても、その総和は決して「全体の最適化」にはならない。むしろ、個々の正しさの集積が、システムという名の怪物を肥大化させ、全体を破滅へと導く合成の誤謬を生み出していく。

全体と部分を切り離したその立脚点そのものが、逃れられない呪いなのだ。

「誰も悪くない。皆、自らの持ち場で最善を尽くしている。それなのに、出来上がるのはこの冷酷なディストピアか……。いや、違うな。コメディだ。とんだ一級品の茶番劇じゃないか」

その時、微かにBGMから、聞き覚えのあるリフレインが耳に届いた。氷室はボリュームを上げる。


――Knock, knock, knockin' on heaven's door.


耳の奥で、乾いたアコースティックギターのストラムと、かすれたディランの歌声が鳴り響いた。

バッジを捨て、銃を地に置いた男が、暗闇の中で扉を叩く音。

――だが、最大の欺瞞は、そこが『扉』などではないと気づけないことだ。

彼は見えていない。戦場から切り離されたその暗闇の広がりこそが、すでに彼を全的に包み込んでいる楽園そのものであるということに。境界線など最初から存在しない。ただ、部分としての生存競争に最適化されすぎた人間の認知が、目の前の調和を拒絶の壁へと仕立て上げ、届かない問いかけを送り続けているに過ぎないように思えた。

「俺たちは、ノックし続けている。すでにその内側にいることさえ、忘れて……」

込み上げる可笑しさに、ふっと息が漏れる。

「いやぁ、やはりコメディだな」

氷室は天井を見上げ、静かな笑いを噛み締めていた。

やがてその眼差しは、静謐な光を湛えたまま、いつまでも天井の闇を捉え続けていた。

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