第9章 松永の評価
深夜。
会社の評価室は、天井の蛍光灯が放つ白い光に照らされていた。空調のダクトが立てる低い唸り音が澱のように続いている。
松永はデスクの前に座り、画面に並んだ評価項目を一つずつ確認していた。今朝、霞が関の受託事業を管理する部署から突然降りてきた「条件確認の繰り上げ」と「人員・実績データの提出期限」に合わせるため、今日の午後に実施した社員評価を、どうしても今日中に確定させる必要があった。
スクロールさせていく。
山岸の名前が出たところで、マウスを握る手がぴたりと止まった。
評価項目の一つ。その数値だけが、定められた基準値の端でわずかに揺れている。
異常と断言するほどではない。画面を少し離れて見れば、そのまま通り過ぎてもおかしくない数字だった。
午後の職場でも、山岸は特に目立った問題を起こしていなかった。上司への受け答えも普通だったし、作業の進捗が遅れているという報告もない。
ただ、端末に残った数字だけが、上位組織から指定された基準からわずかに外れている。
ここで再評価に回せば、処理は明日の朝へ持ち越される。しかし、明日の朝にはもう霞が関側のシステムへデータを送らなければならない。ここで引っかかれば、自分の管理部門全体の査定、ひいては会社全体の受託継続に関わりかねない。
松永は画面の端にある再評価の項目へカーソルを移した。
そこで数秒、手が止まった。
――やがてカーソルを戻した。
「……異常なし」
小さく呟き、決定ボタンを押した。
画面が瞬時に切り替わる。
松永は次の行へと淡々と進んだ。
最後の項目まで確認し終えると、マウスから手を離し椅子の背もたれに体を預ける。強張っていた肩から、少しずつ力が抜けていった。
「……終わった」
評価リストを閉じ、印刷されたばかりの書類を鞄へ押し込む。
立ち上がって窓際へ歩くと、眼下の駐車場には数台の社用車が整然と並んでいた。遠くの環状線を走る車のヘッドライトが、冷えた窓ガラスに細く反射して流れていく。
松永はネクタイの結び目を少し緩め、デスクに戻って壁のスイッチを押した。蛍光灯が一斉に消える。
廊下に出ると、自分の革靴が床を叩く足音だけが、深夜の長い廊下に乾いた音を返している。エレベーターのボタンを押し、一階に降りて出口へ向かった。
冷たい夜気が肌を叩く。
車に乗り込み、エンジンを始動させると、環状線へと車を走らせた。
ロードサイドのコンビニへハンドルを切り、自動ドアをくぐる。漂白剤と揚げ物の油が混ざった匂いが鼻をかすめた。
奥のレジへ向かおうとしたところで、松永は足を止めた。
通路の隅、雑誌棚の横に、見慣れた作業着姿の男が立っている。
山岸だった。
松永は声をかけようとして、……やめた。
山岸は少し猫背になり、雑誌の表紙をぼんやり眺めている。そのまま自動ドアをくぐり、夜の闇へと出ていった。
松永はレジで煙草を一つ買い、車に戻ってエンジンをかけた。沿道に出たところで、前方の信号が赤に変わる。
松永がブレーキを踏むと、赤い光がフロントガラスの表面に細く滲んだ。
助手席の足元には、今日の評価書類が入ったカバンが置かれていた。
松永は一瞬だけ、そこへ視線を落とした。
山岸の名前が頭をよぎったが、すぐに前を向いた。
信号が変わるまで、ハンドルを握ったまま待った。




