第8章 山岸の日常
山岸はベッドの端に腰掛け、まだ冷え切った部屋の空気を肺の奥へと吸い込んだ。
掛け布団をはいで立ち上がるとき、左膝の古傷がわずかにきしんだ。靴下を履き替えるのに、いつもより余分な時間がかかる。
「……冷えたか」
低い呟きを漏らしながら、山岸はダイニングへと向かった。
テーブルの上には、昨夜飲み干したままのマグカップが洗われずに伏せてある。電気ケトルでお湯を沸かし、底に溶け残っていたインスタントコーヒーを注ぎ足した。苦い液体を喉に流し込むと、胃のあたりが重く沈む。
部屋の窓ガラスの向こうでは、隣の家の屋根に朝の光が薄白く反射していた。
テーブルの隅には、昨夜渡された封筒が置かれている。
山岸はそれを手に取り、制服のポケットへ滑り込ませた。
スマートフォンを掴んでポケットに押し込み、シャツに袖を通す。
ボタンを一番上まで留め、鏡の前でネクタイの結び目を整えた。自分の顔の輪郭に、最近少しだけ深い影が差しているように見える。
玄関を開けると、早朝の乾いた空気が頬を打った。
自転車の鍵を差し込み、駐輪場から表通りへとペダルを踏み込む。チェーンが規則正しい金属音を立てて回り始めた。工場へ続く緩やかな坂道を登りながら、山岸は頭の中で今日の作業手順を反芻する。
正社員への登用試験の最終結果が、今月中に出るはずだった。
信号で止まったとき、山岸は一度だけポケットの上から封筒に触れた。中身を確認する必要はない。何が書かれているかは、もう分かっていた。
工場の手前で、すれ違った同僚の若い男が軽く会釈をしていく。山岸は条件反射のように頭を下げた。男が通り過ぎると、その背中を目で追う。
自分より十歳も若い。作業着の背中が、もう自分より上の場所へ向かっていくように見えた。
駐輪場に自転車を乱暴に停め、山岸は自分のロッカーへ向かう。
工場の中からは、すでに重く規則的な機械の稼働音が響き始めている。作業帽を深く被り直し、山岸はその音の渦の中へと足を踏み入れた。




