第10章 氷室の検証
深夜。
場外馬券場の外壁に掛けられた電光掲示板が、白い数字を切り替えた。車のヘッドライトが路面を横切り、その明かりが一瞬だけ階段の踊り場まで届いた。
氷室は、雑居ビルの階段の踊り場に立ち、ノートパソコンを開いていた。
画面に映し出されていたのは、金融市場の生データでも、個人の資産運用アプリでもない。特殊法人向けの財政投融資および地方債スキームに関連する、各省庁間の資金移動ルートを模した独自の相関ネットワーク図だった。
先日、氷室が意図的に放った「微小なノイズ」――それはシステムの中枢ではなく、末端の脆弱なフローにわずかな摩擦を生じさせるためのものだった。
氷室は、そのノイズが霞が関の巨大な防衛網や市場のアルゴリズムにどう回収されていくかを追っていた。
画面の数値をスクロールさせる。
予測通り、システムはそれを「エラー」として弾くのではなく、全体の巨大な流動性の中にそのまま飲み込み、綺麗に丸め込んでいた。
不自然な飛び方はない。数字の並びは完璧に均質化され、昨日までと同じ滑らかな無機質さを保っている。
だが、その「歪みを完璧に隠蔽したまま何事もなかったかのように駆動し続ける」という事実こそが、システムがすでに内側から腐食している何よりの証拠だった。
氷室はモニターの光に照らされた目を細め、キーボードを軽く叩いて画面を閉じた。
「……綺麗に呑み込んだな」
そこに落胆や焦燥はない。ただ、見事に予測通りの軌道を描いて自己保身に走る巨大組織の歯車を、冷ややかに見届けていただけだった。
ノートパソコンを閉じ、鞄に滑り込ませる。端末の角が腿に当たった。
階段を下りる靴底がコンクリートを叩いた。
踊り場の隅に、昨日の新聞が一部だけ残っていた。紙の端が靴に触れる。
氷室は拾わず、そのまま階段を下りていく。
ガラス戸を押し開けると、深夜の通りに人の声が重なっていた。信号が変わり、何人かが歩き出す。
氷室はその流れに混じった。
次の角を曲がる。コンビニから出てきた男とすれ違った。男の手には折りたたまれた新聞があった。
氷室は振り返らなかった。
場外馬券場から少し離れた高架下。
高架下の壁際には段ボールが敷かれ、脇に置かれた折り畳み椅子に、元上司が腰掛けて缶ビールを飲んでいた。氷室の足音に気づいても、視線は上げない。
「来たか」
「ええ」
氷室は隣に立つ。足元から差し出されたもう一本の缶ビールを受け取ったが、すぐには開けなかった。高架の上を車が通り過ぎ、コンクリートの壁が低い振動を伝えた。
「見たぞ」
元上司が言う。
「何をです」
「昼の放送だ」
氷室は缶の縁を指でなぞった。
「そうですか」
元上司は氷室の顔を見た。
「乾への報復ではないだろ」
氷室は答えなかった。元上司はビールを一口飲む。
「まして、正義感に目覚めたってことでもあるまいし」
「そんなものではありませんよ」
「じゃあ、何だ」
高架の向こうで信号が変わり、車の流れが一度途切れる。氷室は手元の缶を見た。
「昔、自分が踏んだものと、同じ匂いがしたんです」
元上司が顔を向ける。
「宮崎の組合か」
「まだ、分かりません」
「分からないのに、あんなものを流したのか」
「だからです」
元上司は短く息を吐いた。
「過去の自分の清算か」
氷室はプルタブに指をかけ、小さな金属音を鳴らした。
「……まあ、そんなところですね」
元上司はそれ以上問わない。氷室も缶に口をつけた。中身はぬるかった。
「人の始末まで背負うなよ」
返事はしなかった。頭上をまた車が走り、二人の足元に細かな砂が落ちてくる。氷室は缶を置くと、そのまま立ち上がった。
「もう行くのか」
「明日がありますから」
「お前に明日なんかあるのか」
「一応」
元上司は鼻を鳴らして笑った。
氷室は高架下を離れる。街の明かりが、乾いた路面に薄く伸びていた。




