第11章 氷室の過去(大蔵省)――記録
二十数年前、霞が関。
氷室は、大蔵省の理財局で働いていた。担当は、民営化政策に関する実務データの整理である。
毎朝午前七時、大理石のロビーを抜けて五階の局内へ入る。デスクに座り、数十のファイルが並ぶディスプレイに向き合うのが日課だった。
その日、氷室は一つの古いデータファイルを開いた。
「大正十年の旧法第○条に基づく資産移管の例外規定」
画面の文字を追ううちに、氷室の手が止まった。旧法の解釈は、現在進められている民営化の実務手続きと明らかにズレている。制度の継ぎ目に、誰も意図していない空隙が存在していた。
さらに、その例外規定の適用対象として、いくつもの団体名が並んでいる。
スクロールする指の先で、一つの名称が目に留まった。
――宮崎県○○椎茸生産組合。
氷室は一瞬、画面のその文字を見つめて動きを止めたが、深く追求はせず、書類の余白に簡潔なメモを書き込んだ。
『この解釈、実務上の例外規定として問題あり』
そのデータをそのままファイルに残し、氷室は上司の執務室のドアを叩いた。
二度、軽くノックをする。
「入れ」
低い声が返り、ドアを開ける。上司は山積みの決裁書類から目を上げなかった。
「どうした、氷室」
「はい。この民営化の資産移管についての資料ですが、旧法の解釈に実務上の矛盾があります。このまま進めると、例外規定の方が残る恐れがあります」
氷室が書類を差し出すと、上司はそれに目を落とし、わずかに眉をひそめた。しかし、じっと文字を追ううちに、その表情に微かな焦燥の色が走る。
「……これを、どこで見た」
「局内のデータファイルです」
上司は書類を閉じ、氷室を真っ直ぐに見据えた。
「……氷室。その話は、これ以上するな」
「なぜですか。放置すれば後で大きなズレが生じます」
「理由を聞く必要はない。その話は、一切するな」
氷室は上司の目から視線を外し、淡々と書類を受け取った。
「……分かりました」
一か月後、氷室は再び同じ執務室に呼ばれていた。
机の前に立つ氷室を睨みつけ、上司の声には隠しきれない怒気が混じっていた。
「氷室、お前が、この例外規定のデータを外部に漏らしたのか」
「……いいえ。実務上の矛盾を指摘し、局内に記録を残しただけです」
「……お前、クビだ」
氷室は静かに頭を下げた。口頭の宣告には、法令上の効力はない。そのことは氷室も、上司も十分に承知の上だった。
一週間後、氷室の手元には本省の辞令が届いた。宛先は、局の外にある施設管理の出向先だった。同封された用紙は一枚、退職願の書式だけだった。
「ああ、そうくるか」
氷室は辞令を封筒に戻し、理財局を後にした。
手元のメモ帳には、自分が書き留めた数行の要点が残っている。庁舎のロビーを出ると、
冬の冷たい空気が肺に染み入った。
自分が下した「記録する」という小さな判断が、どこへ波及していくのか。その時点での氷室には、まだ見えていなかった。




