第80章 氷室の観察(言葉の機能停止)
神田の雑居ビルから見下ろした、あの冷たい夕暮れの光景が、いまだ網膜の裏に焼き付いている。
深夜の静まり返った自室。
デスクのスタンドライトが放つ冷たい光の下、氷室は万年筆を指先で転がしながら、目の前に置かれた古いことわざの羅列を見つめていた。
――「まいた種は自らが刈り取らねばならない」
――「他人の振り見て我が身を直せ」
元々は、人間の内面を深く省みるための鏡であり、自らを律するための知恵の結晶だったはずだ。だが現代社会において、これらの言葉は巧妙にその牙を抜かれ、全く別の機能へとすり替えられている。
氷室は冷ややかに鼻で笑い、ペンを握り直した。
「見事なものだな。……言葉が、思考を停止させるための『防衛回路』として再プログラミングされている」
夕方に目撃した、あの誰もが被害者の顔をして首を絞め合う街の群衆。これまで銀行というシステムに依存し、その恩恵を貪ってきたにもかかわらず、いざ破綻の炎が我が身を包んだ瞬間、彼らは自らの依存や過失を棚に上げ、被害者としての権利だけを声高に主張して暴徒と化す。そして、脊髄反射的にこの言葉を叫ぶのだ。「あいつがまいた種だ」「自業自得だ」と。悪いのはすべてシステム側であり、自分たちには一切の責任はないと言わんばかりに。
そこにあるのは、醜悪な因果の逆算だ。
彼らはあらゆる因果を自身に都合のよい言葉へと仕立て上げ、ある時は他者へのあからさまな非難として、またある時は自らの失敗を覆い隠す免罪符として、変幻自在にすり替えていく。
そうして都合よく消費され、手垢のついた言葉はやがて、社会に固定化され人々の無意識を規定する絶対的な支配的要因へと変貌する。誰もそこから抜け出せない巨大なシステムとして、今度は逆に人間そのものを飼い慣らし、支配し始めるのだ。
本来、因果応報とは「すべての現象を自らの鏡として、自己をより良く磨いていくための内省の智慧」であり、自他を分断するものではなかったはずだ。しかし、現在の排他的な風潮は、その鏡を「自分」ではなく「他者」に向けて固定し、一方的に裁くための道具に変質させてしまっている。言葉の表面的な因果関係だけが、都合よく切り取られているのだ。
氷室は、言葉の持つ底知れぬ暴力性について、改めて認識を強くした。
ふと、数日前に校門の前で目撃した、あの母親の顔が脳裏に甦る。
「子供は、大人の鏡」
この言葉も、元は同じ種類の知恵だった。大人が、子供という鏡に自分の姿を映して、自らの振る舞いを正すための言葉のはずだった。だが現代では、この言葉は、他の大人を指さすために使われる。いじめが起きれば、評論家は「大人社会の縮図だ」と言い、親は「学校の大人が」と言い、教師は「家庭の大人が」と言う。全員が「大人」を三人称で語り、誰も、その中に自分を数えない。
縮図を語る者の席は、いつも縮図の外にある。それが、言葉が機能を停止した証拠だった。
鏡として働いている言葉なら、口にした者の顔が、そこに映るはずなのだ。
氷室は、自分が書きつけたメモを思い出した。――『いじめは、大人の社会の写しだ。大人の社会を直さない限り、教室だけをどれだけ直しても、止まらない』。
言葉が如何に物事の構造を歪め、変質させていくのか。そこには、この世界を覆う資本経済の構造が奇妙に反響しているように思えた。
自然界における「適者生存」とは、本来、環境への適応と調和であり、地球という精緻な循環システムを維持するための規律のはずだった。だが、人間が肥大化させた市場経済は、その本質を「弱肉強食」という都合のよい教条へと歪めて再翻訳した。本来の文脈から牙を抜かれ、強者の特権を全うするための免罪符へと改竄されたのだ。結果、市場というジャングルでは、無限の蓄積を求める強者が循環を止め、富を独占し、土台であるはずの弱者を根絶やしにするまで搾取を続けるという暴走が正当化される。
この「適者生存の誤用(社会達爾文主義/社会ダーウィニズム)」という歴史的事実は最たるものだろう。
「因果応報」の変質もまた、その市場の力学と全く同じ構造を孕んでいる。
人間は、経済においても、精神においても、もはや循環に耐えられないのだ。自らの非を受け入れ、社会へと富や責任を還流させる回路を失った結果、人々は言葉の牙を抜き、それを他者攻撃の棍棒へと鋳直した。
「富の循環を止めた経済が自壊するように、言葉の循環を止めた精神もまた、自己崩壊へ向かう他ない」
氷室は黒い表紙のメモ帳に、掠れるインクをいとわず、強い筆圧で文字を叩き込んだ。
――『言葉の機能停止とは、人間が自らの内面から目を背けるために、過去の知恵を「他者攻撃のための武器」へと改竄するプロセスにほかならない。みずからシステムに燃料をくべながら、その無知を隠蔽せんがため、単なる表面的な相関関係を絶対的な因果へとすり替え、「まいた種」という言葉で自己の業を直視することを拒む。いまやそれは、無知なる大衆が構造的欠陥から目を背け、安全な場所から他者を石打ちにするための、極めて洗練された思考停止の免罪符と成り果てている』
ペンを置き、氷室は暗い部屋の中で深く息を吐いた。胃の奥が、じわりと焼けるように痛む。
思考することをやめ、与えられた言葉のパッケージをそのまま飲み込んで他者を叩き続ける群れ。彼らは、単なる環境の犠牲者を原因の創出者へとすり替える自らの認知のバグに、そして自分たちがどのような自壊のプロセスに加担しているのかさえ、最後まで気づくことはないのだろう。
氷室は、己と世界を別つ境界線の揺らぎの中で、自らの心の澱を一枚ずつ剥がしていくのを感じていた。
鏡として紡がれた自らの言葉が、内なる心の奥底に巣食う闇の正体を炙り出すべく、その鋭利な切先で刻み込んでいく。その先に何を見出そうとしているのかは、自身にも分からなかった。ただ、今まで追い求めてきた「匂い」の正体――。
理財局の机で古いファイルを開いたあの朝、自分が残した一行から始まった歪な匂いの正体を追い求めていたはずが、いつしかその正体は、己自身への問いかけであり、答えそのものへと変貌しつつあった。
ふと、氷室の脳裏に砂場の少年の姿がよぎる。
ただ冷たい縁に座り込んで少年が視線の先に見ていたものと、自分が残したあの一行が、いま静かに繋がっていくような感覚があった。
窓の外の闇は、氷室の問いかけに何も答えず、ただ静まり返っていた。




