第79章 氷室の観察(プロセスへの無知)
十一月下旬の夕暮れ時。
氷室は神田の雑居ビルの窓辺から、スマートフォンの画面に流れる無数のテロップと、眼下の交差点を足早に行き交う群衆を同時に見つめていた。
画面の向こうでは、地方銀行でスマートフォン経由の預金移動が急増しているという速報が拡散されていた。数時間のうちに、預金者たちが他行への振込や払い戻しを相次いで申し込み、銀行側の対応が追いつかなくなり始めていた。別のスレッドでは、学校の閉ざされた教室で起きたSNS上の集団リンチと、その加害者を特定して叩き潰そうとするネット暴徒たちの狂騒がうねりを上げている。さらに、外国人労働者の受け入れを巡る健康被害や治安悪化のデマが、社会の不安を燃料にして猛烈な勢いで共有されていた。
人々は怒り、恐怖し、スマホの画面に向かって「誰がこんな社会にしたのか」「行政は何をしているのか」と絶叫している。
だが、氷室の冷徹な眼差しに映っていたのは、その個別の悲劇やパニックそのものではない。
そこにあるのは、自分たちが何をトリガーにしてそのシステムを動かしているのかすら理解していない――徹底的な「プロセスへの無知」だった。
誰もが「自分は被害者だ」と信じ込んでいる。
銀行から金を引き出す預金者も、ネットで正義の石を投げる匿名のアカウントも、不安を煽るメディアも、商売道具の書類を回す霞が関の官僚たちも。皆口々にシステムの理不尽さを呪い、自分たちはその構造の犠牲者なのだと主張する。
だが、氷室の脳裏には、ノートの隅に書き留めた確信的な言葉が浮かんでいた。
――被害者という立場は、ときに最大の免罪符として機能する。
構造の不備を嘆き、誰かの不正を告発し、自分は悪くないと泣き叫ぶことで、大衆は自らがそのシステムを喜んで回し、欲望の燃料をくべ続けているという現実から目を背けているのだ。
銀行の信用不安を増幅させたのは、スマートフォンを通じて一斉に預金を移そうとする人々の行動そのものでもあった。教室の暴力を生み出したのは、事なかれ主義で沈黙し続けた周囲の無責任な同調圧力だ。
「自分に飛び火さえしなければいい」と傍観を決め込み、周囲の同調に染まって冷笑的な加害プロセスを補完しながら、我が子が標的になった途端に「うちの子は被害者だ」と被害者席に飛び乗る親たち。
彼らは自らリスクの火種を買い集め、システムという名の肥大化した火車に自発的に燃料をくべ続けておきながら、いざ炎が我が身を包んだ瞬間、まるで不意打ちを食らったかのような無辜の顔を作ってみせる。
結果だけを見て「不条理な災難だ」と喚き散らすその姿は、自ら毒を飲み干しておきながら、医者の処方が遅かったと叫び立てる狂人と何ら変わらない。
危機の本質は、決して外部からやってくる暴力などではない。
自らの選択と行動がどのような因果の連鎖を生み出しているかを知ろうともせず、無知のまま「被害者」の座に安住し、すべての責任をシステムや他者に全投げし続ける――大衆の精神的腐敗そのものにほかならない。
氷室は、窓に映り込む闇の輪郭に縁取られた自身の顔を見つめて、口元を少し綻ばせた。
彼はいま、明確に悟っていた。数日前からの違和感を境に、自らが紡ぐ外側の世界への糾弾が、自身の内なる闇を見定めるべく変容していく心のプロセスなのだと。
「鏡の向こう側の自分か」と、誰に言うともなしに呟いた。
窓の外では街路灯が一斉に点灯し、無数の人々が冷たい光に照らし出されていく。
誰もが傷ついた被害者の顔をして、互いの首を絞め合う巨大な自壊のプロセス。
氷室は微動だにせず、その終わりのない連鎖を静かに肌で感じていた。




