第75章 御子神の接触
十一月中旬の夜、都心の高級ホテル最上階にある会員制バーの奥個室。
重厚な遮音カーテンの向こう側では、眼下に広がる東京の夜景が冷たいネオンの海として静まり返っていた。
御子神は琥珀色の液体が入ったロックグラスを指先で軽く回しながら、対面に座る男をじっと見据えた。
向かいにいるのは、大手軍需企業「東亜重機」の常務取締役・神山だった。神山はグラスに手をつけず、手元に置かれた一冊の薄いファイル――北関東の旧防衛プラント関連資産の維持管理業務および施設運営の委託に関する処理案と資料の束から、落ち着かない様子で視線を外していた。
「神山君。話は通っているはずだ」
御子神の低く落ち着いた声が、個室の静寂を切り裂いた。
過剰な威圧感はない。だが、政官財の暗部に深く根を張り、数々の既得権益を裏から操ってきた男が放つ特有の重圧が、部屋の空気を確実に冷やしていた。
「……御子神さん。理屈は分かります」
神山は言葉を濁し、わずかに眉間を寄せた。
「ですが、このタイミングでこの処理案を押し通すのはリスクが大きすぎる。先日の検察の動きや、霞が関のシステム監査の波紋が完全に収まったわけじゃない。特にTR-7042に紐づく一連の処理ログは、わずかな不整合でも監査網に引っかかる」
御子神は静かにグラスをテーブルに置いた。その動作には一切の迷いがなかった。
「リスクを恐れて何もしないことが、最大の損失を生むということが分からんのかね」
御子神はわずかに身を乗り出し、眼光を鋭くした。
「これは君個人のためでも、東亜重機一社の都合でもない。『全体のため』だ。国も官僚組織も、自力ではあの数兆円規模のインフラ資産の処理を完結させられない。動かせば破綻し、放置すれば腐敗する。だからこそ、民間が――君たちの企業が、法規の隙間を縫って『正常な移管処理』の形に落とし込む必要があるのだよ」
「全体のため……ですか」
「そうだ。君たちがこれを引き受けなければ、あの資産は永久に宙に浮いたまま、次の法改正で全てが白紙に戻る。それが何を意味するか、君なら解るはずだ」
「全体のため」という言葉は、逃げ道を塞ぐ冷酷な圧力となって神山の胸に重くのしかかった。
東亜重機にとっても、長期的に塩漬けとなっている旧防衛プラントのインフラや潜在的資産の獲得は喉から手が出るほど欲しい利権である。しかし、それを今このタイミングで動かすことの危険性もまた、痛感していた。
「……分かりました」
神山は深く息を吐き出し、重い決断を下すように書類の表紙に手をかけた。
「御子神さんの仰る通り、この処理案を進めるための社内審査に付す承認をします。……ただし」
神山は胸ポケットから万年筆を取り出しながら、静かに、しかし譲らない眼差しで御子神を見つめ返した。
「我が社がこの処理を引き受ける以上、社内手続きの記録には『本件は御子神氏からの直接の要請・指示に基づく特例処理である』旨の記録を明確に残させていただきます。責任の所在をうやむやにしたまま社内を動かすことはできません」
御子神の口元に、冷ややかな笑みが浮かんだ。
御子神は手元のグラスを軽く傾け、神山がかつて役員昇進や許認可の件で便宜を図ってやった過去のやり取りについて、まるで明日の天気の話でもするかのように、静かなトーンで短く口にした。
「――君がどういう手続きを経てその椅子に座ったか、忘れたわけではあるまい。書式が揃っている間は、誰も違法とは言わないものだよ」
脅すような厳しい声は一切なかった。だが、その言葉に神山の背筋には冷たい汗が流れた。
御子神は小さく首を振り、緩やかに言葉を足した。
「好きにしたまえ。記録の形式などどうでもいい。システムが動き、処理が完了しさえすれば、そこに正当性は後からいくらでもついてくる」
神山は無言のまま書類の末尾に署名した。それは移管の実行を最終決裁するものではなく、御子神の案を社内の正式な審査に付すための承認だった。
御子神の指示に従いながらも、自らを護るための「記録」という小さな楔を打ち込む――。
巨大な防衛利権の歯車が、暗闇の中でギチギチと音を立てて回り始めていた。




