第73章 高瀬の訂正(続)
午後三時を過ぎた宮崎の椎茸生産組合事務所。
外からは、山あいの集落を濡らす秋雨のしとしととした音が絶え間なく聞こえていた。事務所の天井で回る古い換気扇が、油切れの重い回転音を「カタカタ」と響かせ、室内に湿り気と乾燥椎茸の独特な甘酸っぱい匂いを滞留させている。
高瀬はパイプ椅子に深く腰掛け、デスクの上に置かれた厚手のバインダーを開いていた。
黄ばんだ伝票の束。そこには、数ヶ月前に自分が「消耗品費」へと付け替え、処理を先送りした修理代――あの「五万円の穴」がそのままの形で残っていた。
高瀬は誤った仕訳を残したまま、正しい科目へ振り替えるための訂正伝票を書き進めた。五万円の支出そのものは変わらない。だが、どの費目に計上し、どの補助事業の経費として報告したのか。その処理を訂正すれば、実績報告と監査記録の照合も必要になる。
「……直さなきゃいかん」
自分の犯した不正と不整合を消し去り、帳簿を本来の姿に戻す。それは高瀬にとって、罪悪感から逃れるための唯一の贖罪であり、正当な処理のはずだった。だが、ペンを走らせる高瀬の手は、文字を書くごとに重さを増していった。
「高瀬くん、何しとるんか」
事務所の奥、小さな応接セットのソファから、組合長が立ち上がってゆっくりと歩み寄ってきた。使い古された湯呑みを机に置き、高瀬の手元を覗き込む。
訂正伝票の赤い文字を目にした瞬間、組合長の眉間に深い刻み目が走った。
「それ……何の書類だ? 過去の帳簿か?」
「あ、はい……前の期の消耗品費の仕訳で、一部科目の修正が必要な箇所がありまして。今ここで正式に差替の修正申告を出しておかないと、翌期のシステム照合で引っかかる可能性が……」
組合長は高瀬の言葉を途中で手で制し、重い溜め息をつくと、近くのパイプ椅子を引き寄せてドカリと腰を下ろした。高瀬の背中に、冷や汗が伝わる。不正がばれたのではないかという恐怖で息が止まりそうになった。
だが、組合長から出たのは、追及の言葉ではなかった。
「高瀬くん。何の処理だか知らんが……そいつは、もう監査を通った帳簿だろう」
「……ええ、ですが数字の整合性が――」
「内容なんかどうでもいいんだよ」
組合長は低く、しかし断定的に言った。
「どんな理由があろうと、一度検査を通った書類を後から『間違えてました』って差し出してみろ。役所や検査員がどう思う? 『なんだこの組合は、帳簿の管理もまともにできてないのか』『他にも隠してるんじゃないか』って、全項目を洗い直されることになるんだぞ」
組合長の声には、高瀬個人への不信感ではなく、ただ行政の査察に対する長年の恐怖と事なかれ主義が滲んでいた。
「直せば綺麗になるつもりかもしらんがな、行政ってのは『間違ってたから正直に直しました』を評価してくれる場所じゃない。一度判を押したものを蒸し返せば、補助金の実績報告までさかのぼられて返還の話になる。たった一箇所の余計な修正のせいで、組合全体の信用が吹き飛ぶんだ」
高瀬の指先から、すっと体温が引いていく。
組合長は高瀬が裏でどんな不正(5万円の横流し)をしたかなど知りもしないし、興味もない。ただ「確定した書類に余計な手を加えて行政を刺激するな」という、システムの論理だけで動いていた。
高瀬が罪悪感から逃れるために差し出そうとした「正しい訂正」は、この閉ざされた共同体においては、かえって仲間を危険に晒す「余計な不祥事の告発」と同義になってしまうのだ。
万年筆を握ったまま、高瀬の手はぴたりと止まった。
デスクの横で、換気扇がカタカタと乾いた異音を立て続けている。
窓の外の薄暗い雨を見つめながら、高瀬は静かに目を閉じ、深く息を吐き出すことしかできなかった。




