第72章 山岸の自覚
北関東の工業団地の一角にある、老朽化した部品加工工場。
天井の高い建屋の中には、油と金属粉が混ざり合った独特の匂いが充満していた。プレス機の重い衝撃音が規則正しく床を揺らし、蛍光灯の光が散乱する切削油の飛沫を微かに照らし出している。
山岸は作業着の袖で額の汗を拭い、オイルで汚れた軍手を締め直した。
以前の工場を解雇された後、派遣会社経由でこの現場に流れ着いてから二ヶ月。与えられた仕事は、自動旋盤から吐き出される金属パーツのバリ取りと寸法確認という、以前と変わらぬ単純な反復作業だった。
ふと、二つ隣のラインで鈍い警告ブザーが鳴り響いた。
黄色いパトランプが明滅し、制御盤の小さな液晶画面にエラーコードが点滅する。
山岸の手が自然と止まった。以前の工場で自分が幾度となく目撃し、そして自らも黙認してしまったあの画面と同じ色だった。
ラインにいた三十代半ばの若い作業員が、面倒そうに息を吐き出しながら制御盤へ歩み寄る。作業員はエラーの内容を確認せず、制御盤の警告表示を消去した。異常停止ではなく警告だけで済んでいたらしく、機械はそのまま動き続けた。
「……おい」
山岸の口から、掠れた声が漏れた。
声は加工音のノイズにかき消され、作業員の耳には届かない。山岸は数歩、そのラインへと足を進めた。
「いまの、報告しなくていいのか」
作業員が振り返る。山岸は言葉を継いだ。
「原因を確認しないで消すな。刃具の磨耗かもしれないし、主軸のブレかもしれない。そのまま回せば、後工程で寸法誤差が出る」
「あんた、派遣の山岸さんだっけ? 大丈夫だよ、このエラーはいつものやつだから」
作業員は悪びれる風もなく答えた。
「いちいち保全に報告してライン止めてたら、今日のノルマ終わんなくなって俺たちの残業増えるだけだし。上が言ってくるまでこのまま回すのが一番なんだよ」
山岸は言葉を失った。
前の工場でも、同じことを言った。同じように警告を消し、同じように報告しなかった。
「……そうか」
山岸はポツリと言葉を残して、自分の持ち場へ戻った。
手元の金属パーツを掴む指先が、かすかに震えている。
自分が声を上げようと、正論を吐こうと、この巨大な構造と現場の論理の前には何の意味もなさない。自分が変わっても、現場の仕組みが変わらない限り、同じ判断が何度でも反復され、また新たな誰かが「正常」という名の処理の果てに切り捨てられていく。
山岸は低く息を吐き出し、再びバリ取り用のヤスリを握りしめた。
言葉にならない重い無力感が、油匂う冷たい空気とともに、彼の胸の奥底へと静かに溜まっていった。




