第71章 構造の侵食(制度の硬直と自己防衛の罠)
午前十一時を過ぎたばかりの、都内某区役所の福祉総合相談窓口。
天井の薄白い蛍光灯の下、長椅子には番号札を握りしめた人々の重い影が一列に並んでいた。アクリル板越しに交わされる途切れ途切れのやり取りと、呼び出しアナウンスの機械的な電子音が、澱んだ空気の中に規則正しく響いている。
氷室はフロアの壁際に置かれたスチール製のベンチに腰掛け、手元の文庫本に目を落とす振りをしながら、窓口で繰り広げられる光景をじっと観察していた。
窓口では、やつれた顔立ちの中年男性が、書類の束を抱えたまま戸惑いの声を上げている。
「生活困窮の件は〇〇課、障がいの件は〇〇課、まずはそちらで証明書をもらってください……って、さっきも向こうの窓口で言われたんですよ! あっちへ行けばこちらの書類が必要だと言われ、ここに来たら向こうの証明を出せと言われる。一体どこに行けばいいんですか!」
対応する男性職員は心苦しそうに肩を落とし、「制度上、私の一存では決められなくて……」と何度も頭を下げていた。
男性が案内されるまま複数の課の窓口を回るうちに、それぞれの窓口で示される要件は、個別に見れば筋が通っていた。だが、ある制度では対象外とされ、別の制度では必要書類が揃わない。担当課は自分たちの所管する条件を満たしているかどうかしか判断できず、男性は必要な支援にたどり着けないまま、窓口を往復していた。個々の規則を厳密に適応させればさせるほど、男性は必要なセーフティネットの隙間から零れ落ちていくのだった。
職員に悪意はない。市民も不当な要求をしているわけではない。誰もがただ、目の前にある定められた手順とマニュアルに従って正しく行動している。しかし、部署という目に見えない行政の境界線が交差した瞬間、システムは一人の人間の生活を滑らかにすり潰していく。
ベンチの端からその一連の光景を冷徹に見つめながら、氷室は静かに眼鏡のフレームに指を添えた。
――一人の人間を救うために作られたはずの制度が、細分化された部署の境界線によって人間を細切れに分解し、結果的に見殺しにしている。
氷室は低く息を吐き出し、膝の上の本を静かに閉じた。
目の前で起きているのは、単なる自治体の事務処理の遅れではない。この国の社会機構全体が、自ら構築した規則の重みに耐えかねて確実に硬直化を起こしつつある証拠であり、目に見えない因果の糸は、必ず結節点へと向かって、その悍ましい正体をいつしか顕にする……。
◇
職員の平謝りと男性のやり取りが響く窓口を後にし、氷室は自動ドアを抜けて外のエントランスへと足を踏み出した。
コンクリート造りの広場の隅にある喫煙所周辺では、行政手続きの合間に一服しようと集まった人々がまばらに立っている。その一角で、スーツ姿の若い男が手元のスマートフォンを覗き込みながら、苛立った様子でため息をついていた。区役所の電子申請の不具合について、役所に突っぱねられた直後らしく、近くにいた初老の清掃員に向かって八つ当たりするように愚痴をこぼし始めた。
「まったく、役所もIT化だ何だと言いながら、システムがこれじゃあ仕事になりませんよ。現場の苦労も知らないでさ」
清掃員は箒を支えにしながら、諦め切ったような笑みを浮かべて頭をかいた。
「私らのような下っ端には、上のことなんて分かりませんよ。ただ毎日ゴミを掃いていりゃあ、どんな立派な機械も油が切れて軋むってことだけは分かりますがね」
若い男は「話にならないな」と舌打ちして立ち去り、清掃員は静かに箒を動かし直す。
氷室は広場のベンチに腰掛け、そのやり取りを冷ややかに眺めていた。
男は「システムが無能だ」と怒り、清掃員は「末端だから」と責任を回避する。だがそのどちらも、この硬直した巨大な構造を維持し、自らもその歯車としてすり潰されていくプロセスから目を背けていることに気づいていない。誰もが不満を抱き被害者を気取りながら、誰一人その構造を壊そうとはせず、マニュアルのレールの上へトボトボと戻っていくのだった。
ふと視線を上げると、エントランスの自動ドアから、先ほど窓口で揉めていた高齢の男性が、何枚もの書類を握りしめ、疲労困憊した足取りでよろよろと出てきた。男性は数歩歩いたところでバランスを崩し、植え込みの低いレンガ縁に腰掛けようとして、持っていた封筒を地面にばら撒いてしまった。
反射的に、氷室の足が動いていた。目の前で散らばった紙片を無言で拾い集め、男性の前に差し出す。
「……あ、すまんねえ。目がかすっちまって、どうもいけないや」
高齢の男性は、皺枯れた声で礼を言いながら受け取った。その手に浮かんだ深いシミと無数の皺は、この社会のシステムを何十年も下支えし、最後にすり潰されてきた労働の履歴そのものだった。
氷室は何も言わず、ただ無言で軽く頷いた。
言葉を交わす必要などない。目の前で起きていることは、慈悲や善意の物語などではなく、この巨大な欺瞞の構造の中で、誰もが等しく「部分」として消費され、静かに摩耗していくという変えようのない事実なのだから。
日常の些細な問題に潜む、変化の兆しさえうかがえない微かな歪み。それが、静かに社会の根底を蝕んでいく。
高齢の男性が再び頼りない足取りで去っていくのを見送り、氷室は冷たい秋風の中へと歩き出した。
広場を抜けた先のビルの公開空地に、一本の若木が植えられていた。ビル風に煽られて、無数の葉がざわざわと裏返っている。
氷室は足を止めた。
一枚一枚の葉は、たしかに独立して揺れている。だが、どこまでが葉で、どこからが枝なのか、目で線を引こうとしても引けなかった。葉は枝に支えられ、枝は幹へ、幹は見えない根へ続き、根が吸った水は、また葉へと戻っていく。
さっきの窓口にあった、明確な境界線――今までの様々な問題も、すべてここに繋がっているように思えた。
課と課のあいだの線。あの線は、人をシステムの一部として切り分け、どの窓口にも属さない隙間へと突き落とした。
(だが、この木の線は、切っていない。通している)
どちらも「境界」と呼ばれる。同じ言葉で。なぜ一方は人を突き落とし、もう一方は命を循環させるのか。どこに立って物事を見るかによって捉え方が変わるのは分かるが……。
「……線そのものが悪いのか、それとも」
その先は、言葉にならなかった。
全体と部分を切り離して考えることはできる。だが、そのあいだにある「線」をどう扱えばいいのか、氷室には分からなかった。
ブツブツと呟きながら立ち尽くす氷室をよそに、道行く人々は距離を置いてすれ違っていく。
その時、耳の奥で鐘の音が聞こえた気がした。もう、音の行方を探そうとはしなかった。




