↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『東京インバージョン』  作者: Moon


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
72/108

第70章 隠された動線(氷室の観測と日常の欺瞞)

午後九時を回った大手町の一角。

ビル群の隙間を吹き抜ける夜風にトレンチコートの襟を立て、氷室は街路樹のベンチから、横断歩道を一列になって渡るオフィスワーカーたちを眺めていた。同じようなダークグレーのスーツに身を包み、疲弊した顔をスマートフォンに落としたまま駅の地下階段へ吸い込まれていく。ガラス張りのカフェでは、若い社員たちが「主体性を持ち、社会へ価値を還元する」という看板の下で終電間際まで打ち合わせを重ねていた。

組織の内側に没入しているとき、同調圧力ややりがい搾取は「主体的な成長」や「プロフェッショナルな倫理」として自己正当化される。不完全なシステムを気合と自己犠牲で補完することが自発的な高潔さへとすり替わるのだ。

だが、全体を俯瞰するメタな領域から見れば、彼らが崇高と信じる自己犠牲は、不都合なバグを隠蔽するために「生体パーツ」をすり潰して流用している緩衝材に過ぎない。

悪意を持った搾取者がいるわけではない。個々の「部分」が生き残りをかけて選び取った自発的な最適化が、それらの集積によって図らずも「自らを殺す巨大な怪物(全体)」を組み上げ、死角から自らを追い詰めていく。全員が自らの持ち場で最善を尽くし、正当な倫理に従って正しく行動しているからこそ、誰も逃れられない完全な循環が完成するのだ。

そのとき、ふと、街の喧騒を覆い隠すように、低く澄んだ音が鼓膜を揺らした。

――ゴーン、と。

氷室は指を止め、一瞬眉を顰めて顔を上げた。

オフィス街のビル風が吹く夜の空隙を、重厚な鐘の音がゆっくりと通り抜けていく。音源の方向を特定することはできない。街を満たす巨大な駆動音が一瞬だけ途切れ、その隙間から「音の消えていく気配」だけが立ち現れたかのような違和感だった。

横断歩道を渡る人々は、誰も足を止めない。耳を傾ける者も、空を見上げる者もいない。彼らは自らの生活と疲れを抱えたまま、定刻通りに動く地下鉄のホームへと黙々と足を進めていく。

鐘の残響が夜のビル群に溶けて消えると、氷室は静かに視線を落とした。

◇

東京駅周辺の喧騒から少し離れた、高架下のコンクリートの隙間。

氷室は手元の薄型端末に表示された、数兆円規模に及ぶインフラ資産の処理ログを静かに見つめていた。霞が関の中枢で乾や御子神が下した決裁の余波と、金融市場に現れる資金の動き。氷室は両者を別々の情報として追い、時刻や金額、取引先の変化を照合していた。

そのとき、どこからともなく、微かな音が風に乗って流れてきた。

――コーン、と響く鐘の音だった。

氷室はキーボードから指を離し、わずかに顔を上げた。

どこかの寺院のものか、あるいは古い教会の時報か。しかし周囲を見回しても、視界に入るのは無機質なオフィスビルとアスファルトの路面だけだ。音の出処を特定しようと耳を澄ませるが、反響を繰り返すうちに輪郭を失い、まるで虚空に溶け込むようにスッと消えていった。

氷室が気にかけていたのは、その音の出処そのものではない。

音が消えていく方向――そこには、資金繰りの悪化や事業再編によって閉鎖された古い工場や、再開発計画のエアポケットに取り残されたシャッター通りの十字路があった。国債の評価損も、資産処理の遅れも、それぞれ別の経路をたどりながら、どこかで地域の衰退と結びついているのかもしれない。社会の構造や制度が静かに摩耗し、末端へと歪みを押し流していく動線と、鐘の音が消えていく軌跡が、奇妙なほど正確に重なっていた。

「……音は消えても、波紋だけが残る」

氷室が低く呟き、再びモニターへと視線の焦点を戻そうとした瞬間、その違和感を聴覚が鋭く捉えた。

数日前から、ふとした瞬間に耳にしていたあの奇妙な鐘の音。

脳のアノマリー(変則事象)、あるいは単なる過剰同期による思い込み(アポフェニア)か。

氷室は心の中でそれをアノマリーだと結論づけ、思索のアンカーを打ち込んだ。

クオンツの数理モデルすら拾えない、制度の微細な『きしみ』。普段ならノイズとして切り捨てる市場の限界費用や資金還流の歪みを、脳が予測変数に変換して処理しているがゆえに、無意識のうちにあの一音をシグナルとして拾い上げているのかもしれなかった。物事が進む方向の予兆に、生存本能が反応している。

通常、複雑に絡み合った因果の糸を、人間が理性だけで解きほぐすことは難しい。しかし、システムの水面下で蠢くアルゴリズムの気配から、本能は異変のサインを敏感に拾い上げる。それは選択と動向の羅針盤となり、自身が辿る変遷の是非を、静かな気配として提示しているようだった。

氷室は思索を巡らせながら、これまで浮き彫りになった様々な問題の背景にあるものが、一本の線で結びついていくのを感じていた。

「原因を置き去りにして結果だけを取り繕う。あらゆる問題の本末転倒な構図――その背後にあるのは、因果の糸が見えていないことか……」

見えていない。もしくは、見えていないという事実にすら気づけていない。違和感すら抱くことができない。

無数の具体的な現実の連鎖が、結びつけられないまま放置されている。

「直接的な原因と結果」には反応できても、社会の構造や制度の歪み、あるいは歴史的な地続きの連鎖といった「時間や空間を隔てて複雑に絡み合う因果関係」を、リアルタイムで正確に認知することは不可能なのだろうか。

そこには確かに「認知の限界」がもたらす盲点がある。

だが、社会を取り巻く今現在の問題は、単なる能力的な限界というよりも、もっと本質的な物事の乖離に起因しているのではないか。普通に道筋を辿りさえすれば、見えてくるはずのものなのだ。

しかし、この無自覚さこそが社会構造の底流を成している。

原因を置き去りにして、結果の数字やその場限りの対処だけを取り繕う。縦割り行政の自己保身が生んだ資金還流の制度的死角と、その場しのぎの補正予算。辻褄合わせのツケをすべて地方や末端のサプライチェーンへ押し流す、あの巨大な集団無責任体制。

それは経済のネットワークに限った話ではない。氷室がこれまで見てきた、この社会のあらゆる現場に共通する構造的欠陥だった。

教育現場へそっくり丸投げされた、学校のいじめ問題。子供たちの残酷な世界の背後には、大人社会の歪みがそのまま縮図として投影されている。本来であれば、鏡の向こう側にある大人たちの倫理や社会構造そのものを糺さなければ根本的な解決など望めるはずもない。現場の善意につけ込む「やりがい搾取」も、異分子を排除し思考を停止させる「同調圧力」も、結果的にすべては上位組織の機能不全を隠蔽し、コストを末端へ転嫁するための精巧な自己防衛システムに成り下がるのがオチだ。

そして、この綻びだらけのシステムを無批判に受け入れ、日常という『防衛回路』に浸かり続ける一般市民たちの欺瞞。

統治者も、被統治者たる大衆も、誰一人として因果の糸を見ていない。

小さな綻びが、次の綻びを呼び、雪だるま式に膨れ上がって、寸分の狂いもなく破滅というゴールへ突き進んでいく。

氷室は上着の内ポケットから使い込まれたメモを取り出し、万年筆の先を滑らせて静かに文字を綴った。

カチリ、と高架下にペンの金属音が響く。

――『制度の絶対的空白(ブラックボックス)、プロセスのミッシングリンク』

そうとだけ書き記した。

ディスプレイの冷たい青光が眼鏡のレンズを白く照らし出し、氷室は次のデータ行へと目を細めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。